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マタイ 12章1〜8節     2012年1月10日

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。(7)

 旧約の律法によれば、空腹の人が誰かの畑に入って、手で麦の穂を摘んで食べるのは許されることでした(申命記二三25)。鎌を持ち込むことは許されませんでしたが、律法は貧しい人を保護する神のあわれみで満ちていました。問題は、その日が安息日であったということです。パリサイ人たちは、弟子たちの行為を非難します。彼らは麦を「収穫」し、手でもむことによって「脱穀」した、彼らは明らかに安息日に仕事をして、律法を破っている、としたのです。
 けれども主イエスは、サムエル上二一章の逸話を例に挙げ また祭司たちが宮において、主の働きに携わるという意味では、仕事をすることを許されていたことを指摘して、パリサイ人たちが律法を守ることに熱心になるうちに、その本質であり、中心にあるべきものであり、神が喜び、期待しておられるあわれみの心を見失っていることを指摘されたのでした。

マタイ 12章9〜16節     2012年1月11日

そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。(13)

 安息日論争が続きます。私たちは案外このことを軽く考えますが、このパリサイ人たちにとっては非常に重要な問題でした。主イエスの指摘されることがもっともであることも、彼らは理解できたはずです。けれども、彼らは自分たちの間違いを認めるのではなく、「なんとかしてイエスを殺そう」と考えます。悔い改めて主に従うという決断に生きない人は、主なる神を抹殺しようとするのです。
 主イエスにも、安息日をやり過ごして、次の日にその人をいやすという選択肢があったかもしれません。けれども、主はその日に彼をいやしてあげたいと思われたのでした。そして主はいわば命をかけて彼の手をいやされたのです。主が「手を伸ばしなさい」とおっしゃる時、それはとても無茶な命令に聞こえたかもしれません。しかし、主が「手を伸ばしなさい」とおっしゃる時に、そのとおりの事がその人の上に起こったのでした。主の言葉は命と力に満ちた、人を生かす言葉だからです。

マタイ 12章17〜21節     2012年1月12日

いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。(20)

 主イエスのまわりには多くの人たちが集まって来ました。そこには体の弱い人、様々な障碍を抱えている人たちが大勢いました。そして、主は彼らを癒して行かれたのでした。マタイは、この主イエスのお姿の中に、イザヤ四二章の成就を見たのでした。
 イザヤが主イエスの七百年前に見ていた救い主は、痛められた葦、煙っている燈心を見捨てることのないお方でした。折れかかっている葦を気にとめる人はいないでしょう。捨ててしまうのが当然です。すぐに枯れてしまうのは火を見るより明らかだからです。煙っている燈心は迷惑です。新しい燈心に変えた方がいいに決まっています。しかし、この救い主は本当は見捨てられても仕方がないような弱い私たちを憐れんで生かしてくださるお方です。
 神の恵みの外に置かれていると自他共に認める者たちが、このお方に望みを置いていきます。そして、その望みは決して裏切られることはないのです。

マタイ 12章22〜32節     2012年1月13日

だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。(31)

 人々が主イエスのところに一人の人を連れてきました。彼は悪霊につかれていました。この人はその悪霊のために、目が見えず、また口もきけませんでした。彼はどれほどつらい時を過ごしてきたことでしょうか。彼は自分から何かを伝えることがほとんどできなかったことでしょう。けれども、主イエスは、彼を癒し、悪霊を追い出して、彼が目が見えるように、しゃべれるようにしてくださったのでした。
 群衆は、主イエスのことを「ダビデの子」かもしれないと言いました。「ダビデの子」というのは旧約聖書に預言されている救い主のことです。けれども、パリサイ人たちは主イエスを信じるのではなく、かえって、イエスは悪霊につかれていると非難したのでした。「聖霊を汚す言葉」「聖霊に言い逆らう者」とは、主イエスを救い主として指し示す聖霊の御声を拒む人のことです。主イエスを信じなかったら他にはどこにも救いはないからです。 

マタイ 12章33〜37節     2012年1月14日

おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。(34)

 主イエスのことを口汚くののしり、きよい神の子を悪魔呼ばわりするパリサイ人たちに対して、主は、彼らがやがての日、審判の時には、その不用意な言葉に対して、責任を問われることをはっきり告げられます。その語る言葉、していることはその人の本質の表れです。確かに、私たちはある程度は、外側を取り繕うことができるかもしれません。けれどもいざという時には、その人の本質的な部分が出てきてしまうのです。特にその人の語る言葉はその人の心を表しているといってよいでしょう。
 私たちの心には何があふれているでしょうか。不平不満やつぶやき、神に対する不信仰でしょうか。もしそうだとしたら、そのような言葉しか出てこないでしょう。私たちの心の倉の中にいつでも、神のあわれみと愛、感謝と喜びがあふれているようにしたいと思います。私たちの心がそのような良いもので満たされていたら、私たちの口からも神への賛美と主イエスへの信頼の言葉があふれ、人を生かす言葉があふれてくるに違いありません。

マタイ 12章38〜42節     2012年1月15日

ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。(40)

 律法学者・パリサイ人たちが、主イエスのところに来てしるしを求めました。ユダヤ人たちは何かというとそのことが確かである「しるし」を求めました(Tコリント一22)。ただ、すでに主イエスによって多くのしるしと奇跡が行われていました。しかし彼らは見ようとせず、また信じようとしなかったのです。信じる気持ちがなかったら、どれだけしるしが行われても受け入れることはできないでしょう。
 主イエスはただ一つ「ヨナのしるし」とおっしゃいました。これはヨナが三日魚の腹の中にいたように、主イエスも死んで墓の中に置かれ、三日目によみがえる、復活のことを示しています。
 大事なことはヨナの宣教によって悔い改めたニネベの人々のように主イエスに聞いて悔い改め、また南の女王(シバの女王)のように主イエスの言葉を求めて生きることです。主イエスは、律法を代表する宮よりも(6)、預言者を代表するヨナよりも、知恵を代表するソロモンよりも、まさるお方、旧約聖書をはるかに越える方だからです。

マタイ 12章43〜45節     2012年1月16日

そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。(44)

 汚れた霊を追い出していただくことはすばらしいことです。主イエスのもとに来て、悪霊に悩む多くの人々が悪霊から自由にしていただきました。そして、心ない人々は、主イエスが悪霊を追い出すのは、主イエスが悪霊の仲間だからだと言いました。けれども、実際には悪霊を追い出していただくよりもずっと大事なことがあります。それは、新しい主人として、主イエスご自身をお迎えすることです。
 悪霊が出て行ったとしても、主をお迎えしていなかったら、すみかが空になっているのを見た悪霊が仲間を連れて帰ってくる。困難の中から救われる、様々な試練の中から助けられる、難しい状況が解消する、そのこと自体がすばらしいのではありません。一番大事なのは、たとい厳しい状況がそのままであったとしても、私たちが主イエスを私たちの王として迎え、私たちの心を支配していただくことなのです。

マタイ 12章46〜50節     2012年1月17日

天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。(50)

 主イエスとの母マリヤと弟たちがやってきました。どうも、24節以下のパリサイ人たちの非難などが耳に入っていく中で、イエスのことを心配してやってきたということが真相だったようです。主イエスに家族が来て、会いたがっていることを伝えた人に対して、イエスは血縁による肉親と一線を引くような発言をなさいます。もちろん、イエスが家族を無視なさったということではありません。主イエスは十字架の上でも母マリヤのことを気遣っておられますし、教会のスタートの時から、イエスの家族は大切な役割を果たしていきます。ただ、主イエスの家族は、血のつながりによる家族の一人として主イエスを知っているというところから脱却しなければなりませんでした。
 イエスは、まさに自分の弟子たちこそが自分の家族なのだとおっしゃいます。私たちもイエスに手を差し伸べられて、「ごらんなさい、私の家族だ」と言っていただけるのです。神の御旨の中を生きる者でありたいと思います。 


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