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マタイ 11章1〜6節     2012年1月4日

盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。(5)

 バプテスマのヨハネは獄中にいました。彼は、救い主が来られるから準備するようにと人々に悔い改めを迫り、悔い改めにふさわしい生活を勧めると共に、その来るべき救い主として主イエスを指し示し、人々に紹介した人物です。彼は領主ヘロデの罪を糾弾して、捕らえられていました。ヨハネは自分が主イエスを紹介するという任務を果たしたら、自分の役割は終わり去って行くべきであることを知っていました。
 けれども同時に、ヨハネの中に、この主イエスは本当に救い主だろうかという一抹の不安がわいてきていました。ヨハネは主イエスの話を直接聞いたり、またその力ある業を直接見ることはなかったでしょう。けれども、心ない人たちが主イエスのことをいろいろあしざまに言う中で、ヨハネも心配になったかもしれません。主イエスはそれに対して、まさに今自分を通して起こっていることがイザヤ書の成就であることを告げられます(イザヤ二九18、三五56、四二7)。ヨハネにはそれで十分だったことでしょう。

マタイ 11章7〜15節     2012年1月5日

あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。(11)

 バプテスマのヨハネは寂しい荒野で宣教しましたけれど、人々は町々からそこまで出て来て、彼の語る言葉を聞きました。そして、そのことはまさに正しいことでした。彼は人類の歴史の中で最も大きい人物だと、主イエスも認めておられます。
 けれども同時に、主イエスはこのバプテスマのヨハネをもって一つの時代が終わったことを示唆されました。そして今、そこに立っておられる主イエスによって新しい時代が始まったのです。律法の時代、旧約聖書の時代は終わりました。誰も律法の行いによっては神の国に入ることはできません。
 今そこにおられる主イエスを信じる者たちが、その国に入るのです。主イエスによって天国の門は開かれ、主イエスを求め、信頼して近づく者たちは次々にその天国に入って行きます。信仰とは単に受け身のものではありません。私たちに救いを与え、天国を与えてくださる主に大胆に信頼する者たちでありたいと思います。 

マタイ 11章16〜19節     2012年1月6日

また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。(19)

 人々はバプテスマのヨハネが来て厳しくその罪を指摘し、悔い改めにふさわしい歩みをするようにと勧めた時にも、自分の罪を悲しみ、悔い改めて信じようとしませんでした。また、主イエスが来て、喜びの訪れを告げても、それを受け入れようとしませんでした。当時の宗教家たちはバプテスマのヨハネをあんなに厳しい生活を自らに強いるなどおかしい、悪霊につかれていると批判し、また主イエスが罪人たちを迎え入れて一緒に食事をしていると、主イエスのことを汚れていると言うのでした。
 けれどもある意味、そこにこそ、主イエスの来られた目的がありました。主イエスは取税人・罪人と後ろ指を指されるような人々と喜びを共にし、彼らを救いに導いて行かれたのです。それまでおよそ、宗教とか、神とか、救いとかと縁のなかった人たちが、主イエスによって神の愛と恵みに触れて変えられていったのです。

マタイ 11章20〜24節     2012年1月7日

わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。(21)

 コラジン、ベツサイダ、カペナウム・・・いずれも主イエスが何度も訪ねられた町々です。主イエスはそれらの町々で多くの人々を教え、数多くの力ある業を行われました。それは、それらの町々にとってとても大きな恵みでした。しかし、彼らは悔い改めて主イエスを信じようとはしませんでした。主イエスは、とても厳しい言葉でこれらの町々を叱責されます。
 ツロとシドンは地中海沿岸のフェニキア人の町でした。主イエスはそこでは直接的な宣教活動はしておられませんでした。けれども、主イエスは自分がそれらの町で宣教したら、彼らは深く悔い改めたはずだとおっしゃいます。お前たちには、あの創世記の一九章で神に滅ぼされたソドムよりも厳しい裁きが用意されているというのです。
 主のあわれみとその恵み・救いを知る者とされたということは私たちに与えられたすばらしい特権です。同時に主の恵みを知った私たちには大きな責任があることも覚えておきたいと思います。

マタイ 11章25〜27節     2012年1月8日

そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました・・・」。(25)

 多くの宗教家たちは主イエスがすばらしい教えを語られ、また力ある業を次々に行われても、どうでもいいようなことに文句をつけて、そこに立っておられる神の子、主イエスを信じ受け入れようとはしませんでした。地上において知恵のあるとか賢いと言われている人々は、その知恵が邪魔をして、主イエスを受け入れることができなかったのです。
 かえって主イエスを受け入れたのは、知恵がないと馬鹿にされている人たちでした。また幼子たちが主イエスを受け入れていったのでした。主イエスは声を上げて、心から天地の主なる父なる神を讃えます。人間は自分の知恵で神を認めることができず、また神が送って下さった主イエスを受け入れることができません。私たちが主を受け入れることができたとしたら、それは自分自身の力や知恵によったのではなく、神の憐れみと、恵みによることだったのです。

マタイ 11章28〜30節     2012年1月9日

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(28)

 私たちは教会に通い、キリスト者として歩んでいても、疲れることがあります。重荷を負って苦労することがあります。この聖句は決して単に、まだ主イエスを信じていない人に「イエスさまを信じたら、主は休ませて下さいますよ」と語られた、伝道的なメッセージではありません。私たちはクリスチャンであろうとなかろうと、みな「休み」が必要です。そして、主はその「休み」を私たちにくださるのです。ただし、主が与えて下さる「休み」はただごろごろして休むと言うことではありません。
 主は「わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい」
とおっしゃいます。この場合のくびきとは家畜の首にかけてに二頭立てで土地を耕すために使う道具です。主イエスと共にくびきを負って歩んでいく。そのくびきはわたしにぴったりで、決して重すぎることはありません。そして、柔和で心のへりくだった、優しい主イエスと共にペースを合わせて歩んでいく中で、私たちの魂に本当の休みが与えられるのです。


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