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使徒行伝 4章1〜12節     2013年4月28日

この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。(12)

 教会に対して最初の反対、迫害が始まります。ペテロやヨハネを捕らえたのは「祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たち」でした。迫害の先頭になったのはいわゆる神殿で奉仕するサドカイ人たちが中心でした。彼らが弟子たちに対していらだっていたのは、単に主イエスの死の責任を問いつけられたというだけでなく、ペテロたちが主イエスの復活を語っていたからです。神殿礼拝を担う特権階級であった彼らはとても現世的であり、死者の復活など信じていませんでしたし、また、その日だけでも五千人が主イエスを信じる・・・というようなことが、ローマ軍に暴徒ととられたら、今自分たちが与えられている特権を失いかねません。
 彼らは二人を捕らえ、議会に立たせます。ペテロたちは語ります。「この足が不自由な男が癒されたのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神がよみがえらせた主イエスの御名による。私たちを救う名は主イエスの名だけだ」。私たちのために十字架にかかり、死を打ち破ってよみがえってくださったのはこの方だけだからです。

使徒行伝 4章13〜22節     2013年4月29日

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない。(19〜20)

 ペテロとヨハネは議会に立ち、非常に大胆に証しをしました。そのことは議員たちの目にはとても不思議に見えました。彼らは「無学な、ただの人」だったからです。それなのに、この大胆で、明快なスピーチは何なのだろう。また、次のことも明らかでした。確かにこの二人は主イエスの弟子であったこと、またここで神を賛美している男は確かにずっと何十年も神殿でこじきをしていた男だということでした。彼らはここに何かが起こっていることを知りました。けれども、彼らは心を頑なにして、主イエスが救い主であることを信じようとしません。かえって、何とか彼らを黙らせようとしたのでした。
 しかし、ペテロたちはまた言います。自分たちは神に従ってこのことをしているのだ。神に従うよりも人に従うべきだろうか。自分たちは、証人として、自分の見たこと、聞いたことを語らないわけにはいかない。証しとは難しいことではありません。神があなたの生涯にしてくださったこと、あなたが見たこと、聞いたことをその通りに語るということなのです。

使徒行伝 4章23〜31節     2013年4月30日

主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。(29)

 さんざん脅された上、釈放されたペテロとヨハネは仲間のところに帰って、自分たちが言われたことを逐一報告しました。これを聞いた一同は声を合わせて神に祈り、声を上げます。人々が主イエスを拒み、十字架につけて殺したのは旧約聖書の預言の通りでした。そして、人々は同じように、今度は弟子たちの語る福音をも拒んで、弟子たちを脅迫しています。
 しかし、ここで弟子たちが求めたのは、自分たちを守って下さいということではなく、このような脅しを加えられても、ひるむことなく、「思い切って大胆に」御言葉を語ることができるようにということでした。否定することのできない神の御業、そのしるしを行って下さい、ということでした。
 彼らが祈った時、あのペンテコステの日と同じように聖霊が一同を満たし、弟子たちは大胆に御言葉を語り出したのでした。私たちお互いも御霊に満たされて、思い切って大胆に主の恵みを語る者たちでありたいと思います。

使徒行伝 4章32〜37節     2013年5月1日

信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。・・・彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。(32〜34)

 使徒たちは主イエスの復活をとても力強く証しし、主イエスを信じる者たちのコミュニティーは他とは違うユニークなものとして成長していきました。彼らは心を一つにし、また思いをひとつにしていました。そこでは自己主張をして、他者のものを奪い取っても、自分の利益を確保しようという人たちはいませんでした。かえって、自分の持ち物を分け合って、お互いの必要のために用いていました。乏しい者はひとりもいませんでした。自分の地所や家屋を売って献げる人たちがいました。「慰めの子」と呼ばれていたバルナバもそんな一人でした。
 彼らは強いられてそのことをしたのではありません。教会で強烈なアピールがあって、指導されたということでもありません。聖書は私有財産を持つことを禁じてはいません。教会には大きな恵みが注がれていました。そしてその恵みをいただき、その恵みに生かされた時に、自分にできることをさせていただこうという思いが与えられ、彼らにできる神への愛と感謝の表現がささげものという形をとったのです。


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