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使徒行伝 2章1〜4節     2013年4月18日

すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(4)

 屋上の間での百二十名の人たちの祈祷会は十日続きます。そして、ちょうど五旬節(ペンテコステ)の祭の日です。この五旬節は過越の祭から五十日の大切な祭で、旧約聖書では七週の祭とも言われています。ですからこの日はイースターから数えてちょうど七週間後ということになります。この祭の日は小麦の初穂をささげる感謝の日であり、またシナイ山で神がモーセに律法を与えられたことを記念する日でもありました。
 みんなの者が集まって祈っているところに、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきてその家に響き、舌のようなものが炎のように分かれて現れます。集まっていた一同の上に、そして、一人一人に、聖霊が与えられたのでした。
 「舌」のようのもの・・・創世記十一章で、神は人が心を合わせると、神に逆らい悪いことを考えるのをごらんになり、言葉が通じないようにされました。しかし、このペンテコステの日には彼らはいろいろの他国の言葉で神の御業を語り出したのでした。

使徒行伝 2章5〜13節     2013年4月19日

「・・・あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。(11〜12)

 ペンテコステの時、世界中から神を愛し畏れる人々が集まって来ていました。それは各地に散って何代にもわたって外国に住んでいたユダヤ人たちでもあったでしょうし、また外国人でユダヤ教に改宗した人々もいたことでしょう。いずれにしても彼らにとってはユダヤの言葉は母国語ではありません。しかし、多くの犠牲を払って祭に集まって来ている、という点からも、とても信心深い人々であったことは確かでしょう。
 祈りとか説教はやはり母国語で聞くとよく分かりますし、またよく届くものです。物音に驚いて集まって来た人たちは、使徒たちが自分の故郷の言葉で話しているのを聞いてびっくりします。弟子たちは今まで自分が話したことのない他の国の言葉で話していたのです。そして彼らは、弟子たちが話しているのが、神の大きな働きであることがわかったのでした。私たちは人々が分かる言葉で神の大きな働きを語ることができているでしょうか。

使徒行伝 2章14〜21節     2013年4月20日

これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう・・・』(16〜17)

 何が起こっているのだろう、と驚く人がいる反面、あの人たちは新しい酒に朝から酔っ払っているのだ、とあざける人たちもいました。けれども、使徒たちは立ち上がり、ペテロが代表するようにして人々に語りかけます。この時には誰も、足を引っ張り合うことはありません。秩序と一致の中で人々に語るのです。
 ペテロたちは、確かに主イエスが約束しておられた聖霊が自分たちに注がれたことを知りました。彼らは聖霊がどのような方であるか、また聖霊が与えられる時、具体的に自分たちに何が起こるのかを知らなかったでしょう。けれども、この時、彼らは聖霊に満たされ、聖書の御言が分かるようになっていることを知ります。もちろん、よみがえられた主イエスも弟子たちに旧約聖書に書かれていることがご自身において実現していることを解き明かされたでしょう。しかし、このペンテコステの日に、聖霊によってさらにはっきりと神の言葉が理解できるようになります。今そこで起こっていたのは、ヨエル二章の成就に他なりませんでした。

使徒行伝 2章22〜28節     2013年4月21日

あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。(23〜24)

 ペテロは主イエスのことを大胆に証ししていきます。ナザレでお育ちになった主イエスはその多くの力ある業と奇跡としるしとによって、神から遣わされた救い主であることを明らかに示しておられました。誰でも素直になって正直にこのお方に聞き、このお方のしていることを見たら、この方が救い主であることは疑いようのない事実でした。
 しかし、人々はこの主なるお方を信じ受け入れることをしないで、十字架につけて殺してしまったのです。ペテロはまさに主イエスを十字架につけたのは「あなたがた」だと語ります。しかし同時に、主イエスは死んで終わりではありませんでした。主は、ダビデの口を通して語られていた通りによみがえり、私たちに楽しみと喜びと望みとを与えて下さったのです。
 聖霊に満たされ、大胆に語られる聖書の御言は鮮やかに主イエスを描き出していったのでした。

使徒行伝 2章29〜36節     2013年4月22日

だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである(36)

 ダビデはイスラエルの偉大な王でした。ダビデによってイスラエル王国は確立していったと言ってもよいでしょう。彼の神に対する信頼と従順はイスラエルに与えられた大きな祝福であり、また財産であったとも言えます。しかし、ダビデは死んで葬られました。
 けれどもダビデの子孫として生まれて下さった主イエスは死者の世界に捨て置かれることはありませんでした。神はこのイエスをよみがえらせてくださったのです。弟子たちは言います。「私たちは皆その証人だ」。弟子たちもそのことを信じられませんでした。人々がそのことを容易に信じられないかもしれないことはよく分かります。しかし、彼らはよみがえられた主イエスに確かにお会いしたのです。
 そしてイエスは約束しておられた聖霊を注いでくださいました。この聖霊が注がれたという出来事も、確かにイエスが神の右に上げられたしるしでした。まさに、この十字架・復活のイエスこそ、主であり、救い主キリストなのです。

使徒行伝 2章37〜42節     2013年4月23日

悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。(38)

 ペテロの説教を聞いていた人たちは、主イエスが旧約聖書に約束されていた救い主であることを知り、またその主イエスを自分たちが十字架につけてしまったことを知って、恐れおののきます。そしてペテロたちに詰め寄るようにして尋ねます。「私たちは、どうしたらよいのでしょうか」。ペテロは人々になすべき事を告げます。第一に自分が間違ったことをしたこと・罪を犯したことを認めて、悔い改めること、第二に主イエスを信じるしるしとして、主イエスのお名前でバプテスマを受けることです。そうすれば聖霊の賜物が与えられる、とペテロは言います。ここで言う「聖霊の賜物」とは「賜物、すなわち聖霊」ということであり、信じる者に聖霊が与えられ、また罪赦されて、神の御心の中を歩む者とされることを表しています。
 その日、招きに答えて、主を信じた人々が三千人いました。そして彼らは新しく生まれた教会の歩みを共に歩み始めていったのです。

使徒行伝 2章43〜47節     2013年4月24日

そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。(46〜47)

 使徒たちの手によって多くの奇跡が行われていきました。信じた人々はお互いに助け合って生活しました。この世の宝に依存して生きるのではなく、神に信頼し、一切のものを共有し、必要に応じて分け合いました。
 また彼らは心をひとつにして神を礼拝していました。「パンをさき」とは聖餐式のことだと言われます。彼らは主の十字架を日々思いつつ歩んでいきました。そして喜びと、まごころをもって食事を共にしていました。食事は、主イエスも大事にしておられました。共に食卓を囲むことによって生まれる交わりもあるからです。また彼らにとって賛美は大きな喜びでした。
 人々はそんな信者たちに好意を抱き、日々、救われる者たちが加えられていきました。主イエスを信じた彼らの生活が真実なものであること、神の愛にあふれたものであることを人々は見たのです。まさに彼らの信仰は口だけのものでも、見かけ倒しのものでもないことを人々は知ったのです。


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