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ルカ 24章1〜12節     2019年8月25日

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」。(5〜6)

 主イエスが十字架で死なれて三日目の日曜日の朝、女たちは用意してあった香料をもって、イエスさまの墓に行きました。主イエスが十字架で死なれたのは金曜日の夕方であり、主イエスのお体に葬りの準備をする十分な時間はなかったからです。
 実は、主イエスが十字架の予告をなさる時には、必ず三日目の復活のことも語っておられました。けれども誰も主イエスのその言葉を意識していなかったし、信じていませんでした。ある意味、忘れていたとも言えるでしょう。
 しかし、日曜日の朝早く女たちが墓に行ってみると、石はころがされ、イエスさまはそこにおられなかったのです。主イエスはよみがえって今も生きておられます。ですから、お墓で、死人の中に主イエスを捜しても、主イエスはそこにはおられません。主はよみがえられたからです。

ルカ 24章13〜32節     2019年8月26日

彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(32)

 女たちは主イエスがよみがえられたとの御使いたちの知らせを弟子たちのところに届けました。けれどもまだ弟子たちは主イエスの復活を信じることができませんでした。
 さてその日の夕方、クレオパという弟子ともう一人がエルサレムからエマオに向かって歩いていました。そして歩きながら、主イエスの十字架のこと、またその朝、墓が空っぽになって主イエスのからだが行方不明になっていることなどについて話していました。しかしそこに主イエスが近づいてきて、一緒に歩いて行かれました。そして主イエスは、旧約聖書をひもといて、救い主は必ず苦難を受けるが復活するということについて教えられたのでした。彼らはそれでも、すぐ横にいる主イエスを認めることができませんでした。しかし、彼らがイエスさまに気づいた時、彼らは主イエスが語って下さった御言によって心が燃やされていたことを確認したのでした。御言が開かれると心が燃やされるのです。

ルカ 24章33〜43節     2019年8月27日

こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。(36)

 クレオパたちは、急いでエルサレムに帰りました。するとエルサレムにいた弟子たちもまた「主はペテロにご自身をあらわされた」と興奮して語っていました。そして、その日、主イエスは弟子たちが集まっているところにご自身をあらわされました。ただ弟子たちは恐れ、驚いて、主イエスの復活をどうしても信じることができません。霊を見ているに違いないと思っていました。
 主イエスはすぐにそのことに気がついて、手や足を見せてくださいました。間違いようがありません。イエスさまの手や足には十字架につけられたときの傷の跡が残っていたからです。また主イエスは焼いた魚を弟子たちの前で召し上がったのでした。主イエスは決して精神的・霊的によみがえられたのではありません。心の中によみがえったということでもありません。主イエスは確かに、文字通りに、からだをもってよみがえられたのです。そして死を打ち破ったお方として、今も私たちのうちに立っていてくださいます。

ルカ 24章44〜49節     2019年8月28日

あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。(48〜49)

 「モーセの律法と預言書と詩篇」とは旧約聖書全体を指し示しています。イエスさまは旧約聖書が実に自分について書いていること、また、そして、旧約聖書に書かれていることはすべて成就することを示されます。主イエスの十字架もまた復活も旧約聖書に書かれている通りでした。そして、すばらしい罪のゆるしのメッセージがもろもろの国民に宣べ伝えられる・・・これもまた旧約聖書に約束されていることです。そして弟子たちはそのすばらしい救いのメッセージを伝えるために証人として選ばれ、立てられていました。
 弟子たちは確かに証人でした。イエスさまの十字架も、その復活も見たからです。しかし、彼らが証人としてその役割を十分に果たすためには、「父が約束されたもの」「上から授けられる力」、すなわち聖霊をいただくまでは、都エルサレムにとどまって祈りつつ、待たなければなりませんでした。

ルカ 24章50〜53節     2019年8月29日

それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。(50〜51)

 主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、祝福している姿のままで天に帰っていかれました。弟子たちの脳裏に焼き付いた主イエスとの地上の別れは、主イエスの祝福の姿だったのです。そして主イエスはその後も弟子たちのことを祝福し続けてくださいました。私たちもまた、主イエスの祝福の下に置かれています。
 主イエスの祝福の下に置かれた弟子たちは、非常な喜び、神への賛美の中に歩んで行きました。これは二章で羊飼いたちに与えられた喜び、賛美を彷彿とさせます。ルカによる福音書はこれで終わります。後にルカはこの続篇を使徒行伝として書くのですが、まさに主イエスの祝福の下に置かれ、聖霊に満たされ、証人として生きていった使徒たちの姿が描かれることになります。
 主を信じ、主イエスの弟子として生きる生涯は必ずしも、平穏無事で楽な生涯ではないでしょう。しかし、手を上げて祝福してくださっている主イエスの姿を見つめていくときに、喜びと賛美があふれてくるのです。



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