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ルカ 9章1〜6節     2019年5月22日

それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして・・・(1〜2)

 主イエスは十二弟子に悪霊を制し、病気をいやす力と権威を与え、神の国を宣べ伝えるためにおつかわしになりました。十二弟子たちは、とても未熟でしたし、まだまだ学ばなければならないことも多かったと思います。しかし、主は彼らを遣わされました。私たちも同じです。私たちが訓練されて、十分に成熟してから証しをする、宣教する、奉仕に当たるということではなく、いろいろな弱さを抱えている私たちに、主は働きをゆだねられます。そして、主はそのために必要な力と権威とを私たちに与えて下さいます。
 また主イエスは、宣教に出て行くにあたって、何も携えるなとおっしゃいました。主は彼らが生きていくために必要なすべてのものもちゃんと備えてくださる・・・弟子たちはそこで、主に信頼することを学ばなければなりませんでした。そして弟子たちは、主イエスに言われたように出て行ったのでした。

ルカ 9章7〜9節     2019年5月23日

さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を耳にして、あわて惑っていた。(7)

 領主ヘロデは、主イエスがお生まれになった時にイスラエルを治めていたヘロデ大王の息子で、この時代、ガリラヤとベレヤの地方を治めていました。彼は主イエスの噂を聞いた時に、あわて惑っていました。ヘロデは主イエスについて語られていることが、まるでバプテスマのヨハネのようだと思ったのです。しかし、バプテスマのヨハネはすでに自分が首を切った。だとしたら、今、噂になっているこの人は誰だろう。バプテスマのヨハネが生き返ったのではないか。ヘロデは非常に恐れていました。
 領主ヘロデは、ヨハネが正しく、自分が間違っていたことを知っていました。そんな正しい人を、自分は殺害してしまったのです。彼にはやましい気持ちがあったのでしょう。そのような中で、彼は不安と恐怖にとらわれたのでした。
 罪を犯していると、どこかで不安になります。恐れにとらわれます。ただそれは、まだその人の内に良心があるからです。心に光が届いているうちに神様の前に出たいと思います。

ルカ 9章10〜17節     2019年5月24日

イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。(16〜17)

 十二弟子たちは伝道旅行から帰ってきました。彼らは喜んで、自分たちが経験したことを主イエスに報告したことでしょう。主イエスは彼らを連れて、ひそかに身を隠そうとされました。しかし、そんな主イエスのもとにまた人々が集まってきました。そこは寂しい所でした。そして、日も傾き始めています。人々は一向に家に帰ろうとする気配がありません。弟子たちは心配になってきました。しかし、主イエスはそんな彼らに、「あなたがたの手で食物をやりなさい」とおっしゃいました。とんでもないことです。そこには男だけでも五千人ばかりの人がいたのです。しかもそこにあったのは五つのパンと2匹の魚だけでした。しかし、主イエスは彼らを五十人ずつの組にして座らせ、そのパンと魚を祝福して、群衆に配らせられたのでした。そこに主の祝福があふれました。そこにいたみんなが十分に食べて満腹し、しかも十二かごのパンくずがあったのです。主はあふれるほどの祝福を注いで下さるお方です。

ルカ 9章18〜27節     2019年5月25日

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 (23)

 主イエスはひとりで祈っておられました。主イエスの公生涯においてまさに大きな転機になることが起ころうとしていました。主イエスは弟子たちに、人々が自分をどのように言っているか、まず尋ねられます。人々はイエスさまのことをいろいろに言っていました。そして、主イエスは次に、とても大切な問いをなさいます。「あなたがたは、わたしを誰と言うか」。主イエスが人々からどう言われているか、見られているか、ではなく、あなたが主イエスをどのような存在として受けとめようとしているのかを主は知りたいと思っておられます。ペテロは、主イエスが旧約聖書に約束されていた救い主であることを告白します。その時以来、主イエスは受難の予告をされるようになります。主イエスの公生涯の後半が始まったのです。
 主イエスは十字架に向かって進まれます。そして主は私たちをも十字架の道に招かれます。それは人間的な成功とは縁が薄いかもしれませんが、一番得な道、命につながる道、主イエスと共に行く道なのです。

ルカ 9章28〜36節     2019年5月26日

すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。(30〜31)

 「八日ほどたってから」と聖書は言います。それはこの一連の出来事が弟子たちにとってとても大切な忘れがたいことだったことをあらわしています。祈るために山に登られた主イエスが、祈っておられるうちに、白く輝き、そこに現れたモーセとエリヤと共に話を始められたというのです。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表し、この二人はまさに旧約聖書全体を代表していたとも言えるでしょう。彼らは、主イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて主イエスと語り合っていました。「エルサレムで遂げようとする最後のこと」とはエルサレムで成就されようとしている罪からの救いの御業のこと、つまり主イエスの十字架のあがないのことでした。
 雲が彼らを覆い、天から声がしました。それは主イエスのバプテスマの時にも聞こえた声、主イエスが王としてまた罪からの救いをもたらすしもべとして来られたことを確認する声でした。

ルカ 9章37〜43節     2019年5月27日

イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう・・・」(41)

 山の上での経験は特に主イエスと一緒にいた三人の弟子たちにとっては一生忘れることができないほどのすばらしい経験でした。まさに主イエスの栄光の御姿を見たのですから。しかし山を降りるとそこには非常に厳しいこの世の現実がありました。そこには一人息子が悪霊にとりつかれ、命の危険にさらされて、深い悩みを抱えている父親がおり、また、そのような親子を目の前にしながら、なすすべもない弟子たちの姿がありました。
 主イエスは「なんという不信仰な曲がった時代」と言われました。この父親の中にも弟子たちの中にも、彼らを取り巻く人々の中にも「不信仰」を見られたのでしょう。それは主イエスが一緒にいるのが耐えられないほど、我慢できないほどでした。主イエスが一番悲しまれたのは「不信仰」ということだったのです。
 主はこの子から悪霊を追い出し、この親子を救ってくださいました。それは悪霊に勝利されたというだけでなく、この父親を不信仰から救い出してくださったということでもあったのです。

ルカ 9章43〜48節     2019年5月28日

だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。・・・あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。(48)

 主イエスの2回目の受難の予告が記されています。しかし、弟子たちには主イエスのおっしゃっていることがさっぱり分かりませんでした。受難の予告を繰り返し、十字架の道を進んで行こうとしておられる主イエスのそばにいながら、誰が一番偉いかということを議論していることからも、主イエスの思いを分かろうとしない弟子たちの霊的な鈍感さがよく分かります。
 主イエスは、ひとりの幼な子をとりあげて、このような幼な子を受け入れる大切さを語られます。誰が一番偉いかという議論の中で出てくるのは、誰が一番有能で、誰が一番知恵や力を持っているかということであり、そのような議論の中では小さなひとりの幼な子は目にとまらなくなり、見捨てられてしまいます。しかし、それはつきつめれば、主に目を止めず、主を見捨てていくということでもあったのです。そして、また主はおっしゃいました。「いちばん小さい者こそ、大きい」。謙虚になって主に仕え、人に仕える者でありたいと思います。

ルカ 9章49〜50節     2019年5月29日

イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。 (50)

 主イエスが人々の注目を浴びていく中で、主イエスや弟子たちのまねをする人たちが出て来ました。主イエスがしておられたように悪霊に出て行くようにと命じるのです。すると本当に悪霊が出て行くのです。確かに主イエスの弟子たちは直接主イエスから悪霊を追い出し、病を癒す権威を与えられていました。けれども、正式に許可を与えられていないのに、無許可で主イエスの御名を用いてしるしを行っている・・・十二弟子の一人のヨハネはそのようなことを知った時に、勝手に主イエスの御名を使っていた人をいさめて、止めさせたのでした。
 ヨハネはそのことを主イエスに報告します。こんなとんでもないやつがいたのですが、私が止めさせました、というわけです。しかし、主イエスは止めさせないでよいとおっしゃいます。彼らはあなたがたの味方なのだから、とさえおっしゃるのです。主イエスはヨハネの心の中にあったおごりに気づいておられたのでしょう。そのようなおごりは多くの助け手や味方を遠ざけてしまいかねません。神は多くの味方を置いていてくださるのです。

ルカ 9章51〜56節     2019年5月30日

弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。(54〜55)

 主イエスはエルサレムに向かおうとしておられました。「決意」「その方に顔を向けて」というような言い方の中に主イエスの思いを見ることができます。エルサレムで主イエスを待っていたのは十字架でした。
 しかしサマリヤの人たちは、主イエスがエルサレムに向かっておられるということを知ると、主イエスを歓迎しようとはしませんでした。そんなサマリヤの人たちの姿にヤコブとヨハネの兄弟は激怒します。弟子たちにとって、主イエスのこの時のエルサレム上りは、王としての即位に向かう道筋でした。だからこそ主イエスを迎えようともしないサマリヤの人たちが我慢できなかったのです。二人は、主イエスに、サマリヤに天から火をよんで、彼らを焼き払ってしまいましょう、と提案します。
 しかし、主イエスはすぐに彼らをお叱りになりました。サマリヤの人たちだけでなくユダヤ人も、弟子たちも主イエスを受け入れることができないことを主は知っておられました。怒りは多くの場合、神の義を全うすることができません。 

ルカ 9章57〜62節     2019年5月31日

イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。(62)

 主イエスに従うということについてこの聖書の箇所には三種類の人たちが出て来ます。第一の人は、主イエスについていきたいと自分から申し出ました。しかし主は、「人の子にはまくらするところがない」とおっしゃって、主イエスについてどこにでも従っていくということが、決してやさしいことではないことを語られます。主に従って生きるということのためには覚悟がいります。
 第二の人は、まず自分の父親の葬りをさせてほしいと言います。当然のことです。主の「死人を葬ることは死人にまかせておきなさい」という言い方の方が無茶に感じます。ただ、主は単に葬儀のことについて語られたのではなく、いろいろな言い訳をしながら、従ってくることを先延ばしにしようとする人たちに対して忠告されたのでしょう。
 第三の人たちは、まず家の者たちに別れを言わせてほしいと言いました。彼らには、主イエスは、うしろを振り向くなといさめられます。決心をして主に従って、一歩を踏み出すことが求められています。



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