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ヨハネ 1章1〜5節     2019年8月30日

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1)

 ヨハネによる福音者は「初めに」という言葉で始まります。まさにヨハネは「世界の初め」からこの福音書を書き出しています。ヨハネは「初めに言があった」と言います。ここで「言」という語であらわされているのはイエス・キリストのことです。言(ロゴス)はギリシャにおいては、物事の究極的な理想としての世界を指し示していました。ギリシャでは「神」という言葉はギリシャ神話の神々のことを指していたために、絶対的な存在としてのイエス・キリストに、まず、神という単語ではなく、「ロゴス」という言葉を当てはめたのです。
 イエス・キリストはひとり子なる神として、父なる神と共におられ、すべてのものを創造されました。そしてこのお方は光としてやみの中に輝き、やみに打ち勝ってくださったのです。ヨハネはまさに主イエスを光として描きます。闇が濃く、深い中で、主イエスは光として私たちを照らしてくださいました。闇は光なるイエスに打ち勝つことは決してできないのです。

ヨハネ 1章6〜8節     2019年8月31日

この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。(7〜8)

 「ここにひとりの人があって・・・」とここでもう一人の人が紹介されます。「その名をヨハネと言った」。これは主イエスの半年前に生まれ、主イエスがご自身を世にあらわされる前に、人々に救い主をお迎えする準備をするようにと呼びかけたバプテスマのヨハネのことです。彼は光自身ではありませんでした。そうではなく、光であるイエス・キリストについて証しをすることがその使命でした。バプテスマのヨハネがいたのは荒野でした。人里離れた場所です。しかし、そのような寂しい場所に多くの人たちが町々村々から集まって来ました。それだけ人々が神の言葉に飢えていたということであり、また旧約聖書で約束されていた救い主の到来に対する期待が高まっていたということでもあったでしょう。
 ある意味、バプテスマのヨハネ自身、得意になってもおかしくないところです。しかし、彼の願いは、自分のメッセージを聴いた人たちが皆、光なる主イエスを信じることでした。

ヨハネ 1章9〜13節     2019年9月1日

しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。(12〜13)

 主イエスは「すべての人を照らすまことの光」でした。いろいろな見せかけや偽物の光がある中で、このお方は本物の光であり、私をも照らしてくださいます。
 主イエスが世界を創造されました。そして主イエスが人となってこの世に来てくださったとき、本来でしたら、主イエスによって造られた世界、特に、神の民として選ばれていたイスラエルは主イエスを受け入れ、歓迎して当然だったと思います。しかし、民は主イエスを受け入れようとしませんでした。
 しかし、人々が主イエスを信じ、受け入れるとき、主イエスはその人に神の子となる力を与えてくださいます。私たちは家柄によって救われるのではありません。人間の熱意やまた計画によって救われるのでもありません。ただ神によって生まれるのです。私たちは主イエスを信じる時に、神の子となる力を「与えられた」のです。私たちも主を信じ、受け入れるお互いでありたいと思います。

ヨハネ 1章14〜18節     2019年9月2日

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(14)

 神のひとり子であり、神であられるお方が人になってこの世に来てくださいました。全地全能のお方、創造者なるお方が貧しい姿をとってこの世に来てくださいました。これを御子の「受肉」と言います。主イエスが人間の姿をとられたというのは神の子なるお方にとって、とても大きな謙遜でもありました。けれども、そのことがあったからこそ、私たちのために救いの道が開かれたのです。
 この主イエスのうちにはめぐみとまことが満ちていました。このお方を通して私たちはめぐみにめぐみを加えられました。そして同時に、神が私たちと同じ姿をとってこの世に来てくださったことによって、私たちは神を見ることができるようになりました。神を知ることができるようになりました。主イエスがその教えを通し、またその生涯を通して、私たちに見えない神を見せ、神を教えてくださったからです。

ヨハネ 1章19〜23節     2019年9月3日

彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。(23)

 バプテスマのヨハネはガリラヤ地方のヨルダン川近くで人々を教えていたものと思われます。ヨハネが救い主(メシヤ)の到来が近いことを語っており、人々が続々とバプテスマのヨハネのもとに集まっていることを聞いたエルサレムの宗教指導者たちは祭司やレビ人たちを遣わして現地調査をさぜたのかもしれません。エルサレムから来た人々はストレートに尋ねます。「あなたはどなたですか」。それに対してバプテスマのヨハネは答えます。「わたしはキリストではない」。
 そしてやりとりの中でヨハネが最後に言ったのは、自分は預言者ヨハネが言った「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」だということでした。ヨハネのもとには多くの人たちが集まって来ましたが、彼は人々を自分にひきつけようとはしませんでした。キリストを紹介し、自分自身は「声」として消えていく。それはヨハネらしい生き方だったと言えます。

ヨハネ 1章24〜28節     2019年9月4日

わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない。(26〜27)

 エルサレムから遣わされた人たちは、バプテスマのヨハネが何者かについて何らかの答えをエルサレムに持って帰らなければなりません。ヨハネがキリストでも、マラキが語っていたエリヤ(マラキ四5)でも、モーセが語っていた預言者(申命記十八15)でもないなら、なぜあなたはバプテスマを授けているのかと問います。
 しかし、ヨハネにとっては自分が何者かということはたいした問題ではありませんでしたし、またそのことについて人々に理解してほしいとは思っていませんでした。ヨハネが知ってほしかったのは、ヨハネの後に来ようとしているお方のことでした。その方は、まさにあなたがたの中に立っておられると言い、すぐにでも、人々の前に現れる、そして、自分はその方のくつのひもを解く値うちもない、と言います。ヨハネが紹介しようとしていた救い主はまさにそのような偉大なお方であることをヨハネは知ってほしかったのです。

ヨハネ 1章29〜34節     2019年9月5日

その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(29)

 バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを授けていく中で、その人々の行列の中にイエスが立っておられるのを見ます。ヨハネはイエスを見た時に、すぐに主イエスが、神に遣わされた救い主メシヤであることに気づいたようです。そして、イエスがバプテスマをお受けになった時、その確信を強くします。ヨハネはもともと、神さまから、「御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそが御霊によってバプテスマを授ける方だ」と教えられていました。そしてヨハネは、御霊が主イエスの上に鳩のように下るのを見たのです。
 ヨハネは、パリサイ人たちとやりとりをした翌日、主イエスを見て、言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。ヨハネは、神に遣わされた救い主が、政治的な王ではなく、世の罪を取り除くために来られるということを理解していました。イスラエルでは律法の規定に従って、罪やとがのためのいけにえを献げ、罪のゆるさしをいただきました。しかしそのいけにえの小羊は、やがてこられる主イエスを指し示していたのです。

ヨハネ 1章35〜42節     2019年9月6日

イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った。(40〜41)

 またその翌日のことです。ヨハネは自分の弟子たち二人と一緒にいました。その時、ヨハネはイエスさまを見かけてまた言います。「見よ、神の小羊」。そしてヨハネは自分の弟子たちがイエスさまについていくことを許します。ヨハネは自分のところに弟子たちを引き留めておこうとはしませんでした。二人はイエスさまについていって、その日はイエスさまと一緒に泊まりました。
 その二人のひとりはペテロの兄弟アンデレでした。アンデレは、イエスさまのところに泊まった後、自分の兄弟ペテロに出会って、「わたしたちはメシヤにいま出会った」と言います。アンデレはヨハネの言葉により、またイエスさまと共に過ごしたことによって、イエスさまが救い主であることが分かったのでした。そしてアンデレは、自分の兄弟ペテロをイエスさまのところに連れていきました。アンデレとペテロの兄弟はこの日から主イエスの弟子となったのです。

ヨハネ 1章43〜51節     2019年9月7日

「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。(51)

 イエスさまは、ペテロやアンデレと同じ町の人ピリポに出会って、「わたしに従ってきなさい」とおっしゃいます。ピリポはイエスさまについていきました。そしてピリポは今度はナタナエルに出会って、旧約聖書で約束されていた救い主、ナザレのイエスにいま出会った、と語ります。けれども、ナタナエルは「ナザレのイエス」が救い主の訳がないと言います。ナタナエルにはナタナエルなりの根拠があったのですが、ピリポはそれで引き下がりません。ナタナエルに「来て見なさい」と語ります。ナタナエルはピリポに連れられて主イエスに出会い、主イエスと語った時、すぐにイエスさまが救い主であることを悟ります。
 主イエスはナタナエルに、「もっと大きなことをあなたは見る」と約束されます。あのヤコブの夢に出て来た天のはしごのように、神の御使いたちが主イエスのところから上り下りしている。主イエスはまさに天とつながっておられるのです。



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