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ヨハネ 13章1〜11節     2019年10月28日

ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(8)

 主イエスが十字架につけられる前の夜、主イエスは弟子たちと一緒に最後の晩餐をなさいました。その時、そこには足を洗ってくれるしもべがいませんでした。イスラエルはほこりが多く、またサンダル履きで道を歩きますから、家に入るとその家のしもべがお客の汚れた足を洗ってくれるという習慣があったのです。ただそこには足を洗うしもべはいませんでした。そんな時、主イエスは立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻き、水をたらいにいれて弟子たちの足を洗い始められました。
 ペテロは、イエスさまに足を洗っていただくなんてとんでもないと言い、それを固辞します。しかし、主イエスは、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、わたしはあなたと何の係わりもなくなる」とおっしゃいます。まさに主イエスは私たちの一番汚れている部分に触れてそこを洗うことによって、十字架の上で私たちの罪を洗うことによって、私たちと関係をもたれるのです。

ヨハネ 13章12〜20節     2019年10月29日

主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。(14〜15)

 主イエスが弟子たちの足を洗う・・・そこには、主イエスが私たちの汚れた心を洗ってくださるということを象徴的に示すという側面がありますが、同時に、そこには、主イエスが私たちのために手本を示されたという側面もあります。
 弟子たちはしばしば、誰が一番偉いかという議論をしていました。弟子たちは人の上に立ちたいと思っていましたし、また人に命令する立場になりたいと思っていました。しかし、主イエスは自分の手本にならうようにとおっしゃいます。主イエスの弟子たちもまた互いに足を洗い合うようにと招かれているのです。互いに弱さをあげつらい、汚れや罪を裁き合うのではなく、その相手の弱いところ、汚れたところに近づいて、それを洗い合い、おおい合う、そのような交わりが主イエスの弟子たち同士の間にも期待されています。ただ弟子たちがそのような歩みができるようになったのは、ペンテコステの日に聖霊が注がれて以降のことでした。これは御霊の助けがあってはじめて可能になることなのです。

ヨハネ 13章21〜30節     2019年10月30日

イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。(21)

 主イエスは弟子たちに、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」とおっしゃいます。主イエスはとても心を痛めておられたのだと思います。自分が裏切られて捕らえられるということ、そして十字架の道を歩むということはよいでしょう。そのことではなく、三年間、共に歩み、共に食事をし、イエスさまのそば近く過ごしていた弟子の一人が、自分を裏切ろうとしていること、滅びようとしていることを知っておられたからです。
 弟子たちは互いに顔を見合わせます。しかし、イスカリオテのユダ自身は自分のしようとしていることを知っていたのですから、本当にドキドキしたはずです。これは主イエスが彼のために備えてくださった、最後のチャンスでもあったと思います。しかし、彼はそのチャンスを生かすことをしませんでした。そして、夜の闇の中に消えて行ったのでした。神が与えてくださった悔い改めの機会を逃すことのないようにしたいと思います。

ヨハネ 13章31〜35節     2019年10月31日

互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。(34〜35)

 旧約聖書の中には多くの戒めがあります。しかし、それらの戒めの多くは主イエスによって成就しました。そして、主イエスは新しい戒めを与えられました。それは「互いに愛し合いなさい」というものでした。この戒めは主イエスの弟子たちに与えられています。それは主イエスを信じる私たちにも与えられているということです。そして主イエスが求められたのは、主イエスを信じる者たちが互いに愛し合うということです。クリスチャン同士、同じ教会の兄弟姉妹同士であっても時に愛し合うということがやさしくないことがあります。しかも、ここで主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように」とおっしゃいます。命をかけて、心から愛するということです。それはまさに主イエスの恵みによらなければできないことです。そして、そのような愛に生きるときに、人々は私たちのことを主イエスの弟子として認め、主イエスが私たちのうちにおられることを認めてくれるのです。

ヨハネ 13章35〜38節     2019年11月1日

あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう。(36)

 主イエスは十字架の道を歩んでおられました。そしてその道は誰もついていくことはできませんでした。ペテロは、「なぜ、今あなたについていくことができないのですか」と言いましたが、それはペテロが、イエスさまのことも自分のこともわかっていなかったことをよく示しています。確かにペテロは、イエスさまのために命も捨てると言いました。そして、ペテロの気持ちには嘘はなかったと思います。それほどの覚悟と熱い思いを持っていたペテロのことを私たちはすごいと思います。ただ、人間の覚悟や元気だけでは主イエスに従うことはできません。特に主イエスが歩んでおられた私たちのあがないのための十字架の道は誰もついていくことができない道です。
 しかし、同時に、主イエスはペテロに、「今はできないけれど、あとになってから、ついて来ることになる」とおっしゃいました。主イエスはペテロが恵みの中に回復し、主イエスについて来るようになることを知っておられたのです。



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