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ヨハネ 21章1〜8節     2019年12月2日

夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。(4〜5)

 弟子たちは主イエスに言われていたように、ガリラヤに移動します。そこは主イエスと出会った場所であり、主イエスに召し出され、従って立ち上がった場所でした。ただ、主イエスを待っているうちに、彼らのうちにある種の不安が生じてきたかもしれません。自分たちは主イエスの弟子として本当にやっていけるのだろうか。また、主イエスに従っていって本当に大丈夫なのだろうか。
 ペテロは、ガリラヤ湖で昔からしていた漁をすると言い出します。主イエスの弟子としてはダメでも、漁師としてはやっていけると思ったでしょうか。しかし、弟子たちが夜通し漁をしても何もとれませんでした。漁もできないのです。けれども、失意と疲れの中にいた弟子たちを主は見ておられました。そして岸に立って、弟子たちに声をかけられます。この主イエスの呼びかけを直訳すると「子たちよ、何も食べるものがないのだろう?」ということになります。弟子たちは「ありません」と答えるしかありませんでした。しかし、それを認めることが再召命の第一歩でした。

ヨハネ 21章9〜14節     2019年12月3日

彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。・・・イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。 (9、13)

 復活後に起こったガリラヤ湖の大漁の奇跡は、まさに弟子たちが最初主イエスから召命をいただいた時に起こった奇跡の再現でもありました。十字架を前に主イエスを捨てて逃げてしまい、主イエスが再三語っておられた復活をも信じることができなかった弟子たちでしたが、そんな弟子たちに、もう一度、最初からやり直そうと言うかのように主イエスは近づき、主イエスの召しが微動だにしていないことを語られたのでした。
 網を引きずるようにして陸に戻ってみると、すでに主は炭火を起こして待っておられました。すでに魚が焼かれ、パンも用意されていました。主は、弟子たちを朝食に招かれます。主イエスがパンと魚を彼らに与えられた時、彼らは五千人の給食の奇跡を思い起こしたことでしょう。主がこれからも彼らを導き、彼らを養ってくださる・・・それは主が彼らに約束された豊かな恵みを保証する奇跡でもありました。

ヨハネ 21章15〜17節     2019年12月4日

「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。「わたしの小羊を養いなさい」(15)

 食事が終わったとき、主イエスはペテロだけを呼び出すようにして語られます。20節を読むと、主イエスはどうもペテロと歩きながらこの話をしておられたようです。主イエスは「ヨハネの子シモン」と彼の元々の名前を呼ばれます。それはまさに、ペテロの召しの原点に立ち帰るかのような呼びかけでした。そして、主イエスは彼に、「この人たちがわたしを愛する以上に、わたしを愛するか」と問われます。何をするかということ以上にここでは、主を愛するかどうかが問われています。
 以前のペテロでしたら、「もちろんです」と胸を張ったことでしょう。しかし、この時のペテロは、「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と精一杯の答えをしたのでした。主イエスは「わたしの小羊を養いなさい」と彼にもう一度使命を託されました。
 主イエスはペテロに三回「愛するか」と問われます。それは、三度主を知らないと言ったペテロへのゆるしと再召命の呼びかけでもありました。

ヨハネ 21章18〜19節     2019年12月5日

あなたは、わたしに従ってきなさい。(22)

 主イエスは、三度「愛するか」と問われた後に、ペテロの身にこれから起こるであろうことについて言及されます。ペテロはこれまで、自分の思い通りに、ある意味自由に生きてきました。しかし、主イエスを愛するという決断をし、主イエスの羊を養うという使命を与えられたペテロは、これからは強いられて、行きたくないところに連れて行かれることもあるでしょう。主イエスは特にペテロが年をとってからそのようなことがあるだろうとおっしゃいます。
 私たちの主にある歩みも同じです。主を愛して生きる、ということは、自分の願い通りの歩みを保証するものではありません。かえって、自分の思いとはまるっきり違うところに「連れて行かれる」ように感じることもあるでしょう。しかし、主イエスはペテロに「わたしに従ってきなさい」とおっしゃいます。それはかつて、主イエスがペテロに語られた言葉でもありました。
 それは主の愛の招きです。従ってきなさいと招かれる主ご自身がいつも先に行ってくださるからです。

ヨハネ 21章20〜25節     2019年12月6日

これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。(24)

 ペテロと主イエスが話をしていたとき、後ろからイエスの愛しておられた弟子がついてきているのに気づきました。ペテロは彼のことが気になります。ペテロは尋ねます。「主よ、この人はどうなのですか」。単純な好奇心から出た問いだったかもしれません。私たちもしばしば他の人のことを気にしたり、自分と他の人を比較したりします。けれども、他の人は他の人です。主はその人をも祝福し、用いてくださるでしょう。しかし、それはある意味、わたしには関係のないことです。ですから主イエスは、ペテロに対して、人のことは心配しなくていいので、「あなたは、わたしに従ってきなさい」とおっしゃったのでした。
 この「イエスの愛しておられた弟子」が、この福音書を書きました。これはヨハネとされています。ヨハネは、自分が主イエスに愛されている存在なのだということを心の底から確信していたのでしょうね。



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