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ヨハネ 5章1〜9節     2019年9月20日

イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。(6)

 主イエスはまた祭の時にエルサレムに上られました。イスラエルの人々は年に三回の祭の時にはエルサレムに上ってそこで礼拝をすることになっていたのです。さてエルサレムの神殿の北側にベテスダの池と呼ばれるプールがあり、その池の周りには回廊がありました。その回廊には病気の人、様々な体の障害を負っている人たちが横たわっていました。彼らは池をじっと見つめながら、池の水が動くのを待っていました。池の水が動いたときに最初に池に入る人はどんな病でも癒されると信じられていたからです。
 主イエスはそこで38年間病気に悩んでいる人をごらんになりました。主イエスは彼に「なおりたいのか」と声をかけられます。ある意味、なおりたいに決まっているでしょう。しかし、彼はストレートに「なおりたい」とは言いません。正直もうとっくにあきらめていたかもしれません。けれども、主イエスはそんなこの男をもあわれんで、癒してくださったのでした。

ヨハネ 5章9〜18節     2019年9月21日

そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。(14)

 主イエスがベテスダの池のところで38年間病気に悩んでいる人を癒されたのは安息日でした。ユダヤ人たちは彼が癒されたのが安息日だったということを問題視します。安息日には一切仕事をしてはいけないということになっていたからです。しかし、主イエスは神は安息日にも働いておられるのだから、神の子である自分も働き、神の業を行うのだ、とおっしゃいます。このようにして、主イエスは神とご自身を同じところに置かれたのです。ここで私たちはイエスをどのような方として信じるかという決断を迫られます。けれどもその当時の宗教家たちは、主イエスを神の子と信じ、受け入れることをせず、とんでもないことを言って神を汚す者だと断罪したのでした。
 主イエスは癒された人に、「今後はもう罪を犯さないように」と諭されました。主イエスは体の癒しよりもさらに大切なことがあるのを知っておられたのです。

ヨハネ 5章19〜29節     2019年9月22日

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。(24)

 主イエスは神の言葉を語るために来られました。すべてこの地上の生涯を終えた人たちが、主イエスの言葉を聞いてよみがえり、神の裁きの座の前に立つ日がきます。死者は人の声を聞くことはできません。しかし、主イエスの言葉は死者をも生かします。
 やがて裁きの日によみがえるというだけではありません。罪を犯し、神に背を向けて歩み、霊的に死んでいる人たちが主イエスの言葉を聞くときに、彼らもいのちを与えられます。大切なことは、主イエスの言葉を聞いたときに、その言葉を信じ、その御言を語られた主イエスを信じるということです。信じる者は、裁かれることはありません。死から命に移されています。永遠の命に生きる者とされているのです。いつか救われるかもしれないとか、頑張ればそうなるかもしれないということではなく、すでにそのことが信じる者のうちに起こっているのです。

ヨハネ 5章30〜47節     2019年9月23日

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。(39)

 主イエスが神の子・救い主であるということを、バプテスマのヨハネは語りました。そして、ヨハネの言葉を信じて、主イエスのもとに来たり、主イエスの弟子になった人たちもいました。
 けれども同時に、主イエスが地上で歩まれる中で人々の前で行われたわざもまた主イエスが救い主であることを証ししていました。主イエスは罪人に寄り添い、人々を救いに導かれました。また主イエスがなさった多くの奇跡もまた主イエスが旧約聖書の時代から約束されていた救い主であることを証ししていました。
 それに加えて、聖書自身が主イエスが救い主であることを証ししています。聖書を正直に読んで、素直に受け入れるなら、主イエスが私たちの信じるべき救い主であることは明らかです。確かに旧約聖書にはイエスという名前自身は出てきません。しかし、聖書は主イエスについて書かれ、主イエスを証ししているのです。



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