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ヨハネ 6章1〜14節     2019年9月24日

そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。(11)

 テベリヤ湖はガリラヤ湖の別名です。主イエスはそのガリラヤ湖の向こう岸に行かれました。そこは寂しい所でしたが、大勢の群衆たちも、主イエスがそこにおられるのに気づいて集まってきました。しかし、そこは寂しい所であり、大勢の人たちの食事を用意することは到底できないでしょう。主イエスはピリポに、「どこからパンを買ってきてこの人々に食べさせようか」と問われます。弟子たちは困惑します。「二百デナリのパンがあっても足りない」。もちろん、そんなお金はないのですが、お金があってもそんな大量のパンなど調達する手段がありません。手元にあるのは子どもの持っていた大麦のパン5つと、魚2匹だけでした。しかし、主イエスはそれを手に取り、感謝して、人々にその望むだけ、十分に与えられたのでした。余った分だけでも12のかごにいっぱいありました。神が祝福し、養ってくださる、その祝福の豊かさを思います。

ヨハネ 6章15〜21節     2019年9月25日

イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。(20〜21)

 主イエスが五千人の給食の奇跡をなさった時、人々は熱狂して主イエスを王にしようとしました。興奮の中で、主イエスが旧約聖書に約束されたメシヤで間違いないとして、彼らの願っているように、ローマに対抗し、政治的な独立をもたらす救い主としてかつぎ上げようとしたのです。もし主イエスがそのような救い主だったら、主イエスは十字架について死ななくてもよかったでしょう。しかし、主イエスは私たちを罪から救い、永遠の命を与える救い主でした。ですから主イエスは、人々を避けるようにして、ただひとり山に退かれたのです。
 弟子たちは舟で向こう岸のカペナウムに向かっていました。大荒れのガリラヤ湖の上で途方に暮れていた弟子たちに、主は海を歩いて近づかれ、「わたしだ、恐れることはない」とおっしゃいました。主はどんな嵐の中でも沈むことのないお方として私たちに近づき、私たちを支えてくださいます。

ヨハネ 6章22〜29節     2019年9月26日

朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。(27)

 主イエスがカペナウムに戻られたことに気づいた群衆は、主イエスを追うようにしてカペナウムにやって来ました。彼らは主イエスのなさった奇跡を見て、実際に体験して、なお興奮の中にいました。主イエスを説得し、また自分たちが体験したことを人々に熱く語って、新しい時代を来たらせなければなりません。人々の中には夢がどんどんふくらんでいっていたことだろうと思います。パンと魚の奇跡は主イエスが旧約聖書に約束された救い主であるしるしでした。しかし、人々の中には自分たちの夢・野望が広がっていて、神がしようとしておられたことを受け入れるということからはほど遠いところにいました。
 主イエスは、食べるパンではなく、朽ちない食物を求めて生きるようにと語られました。それは信じる者に永遠の命をもたらすものでした。けれども同時に、信じること自体も、私たちの側の何かではなく、神のわざなのだ、と主イエスは語られました。

ヨハネ 6章30〜39節     2019年9月27日

イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」。(35)

 「信じる」という言葉を聞いた人々は、信じるためにはまたもっと多くの、もっと大きな奇跡を見せてほしいと期待しました。彼らにとっても信仰は、何かそれなりの不思議を行ってくれたら信じられる、信じてもいい、というようなものでした。ただ人間は、どれだけ多くの奇跡を見たとしても、信じる心がなかったら、信じないものなのです。
 主イエスは天から下ってきた命のパンについて語られます。その命のパンとは、主イエスご自身のことでした。そして命のパンを食べるとは主イエスを信じることでした。主イエスを信じる者は決してかわくことも飢えることもありません。主イエスは、信じる者に必ず永遠の命を与えてくださいます。私たちの地上の生涯には終わりが来るでしょう。しかし、主イエスは、信じる私たちを、終わりの日によみがえらせてくださいます。私たちはとこしえに主と共に生きるのです。

ヨハネ 6章41〜51節     2019年9月28日

わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。(51)

 主イエスが「わたしは天から下ってきた」とおっしゃったときに、ユダヤ人たちは主イエスにつまづきました。主イエスの言葉を受け入れることはできませんでした。彼らにとっては、主イエスはあくまでも「ヨセフの子」であって、天から来られた方ではなかったのです。しかし、主イエスはさらに自分は天の父に遣わされたのだとおっしゃいます。主イエスは神のもとから来られた神の子であって、父なる神を見たお方として、その父なる神を私たちに示そうとしておられました。
 イスラエルの先祖たちは天からのパン、マナを食べましたが、死んでいきました。しかし、天から下ってこられた命のパンである主イエスを食べる、この主イエスを信じる者は、永遠の命を与えられ、いつまでも死ぬことはありません。主イエスはまさに十字架の上でご自身の命を、命のパンとして私たちに与えようとしておられました。

ヨハネ 6章52〜59節     2019年9月29日

生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。(57)

 主イエスはさらにユダヤ人たちにおっしゃいます。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」。もちろん、ここで主イエスは実際の肉と血のことをおっしゃっていたのではありません。それは主イエスの存在そのもの、その命のことを示していたのであり、また十字架で血を流され、肉を裂かれて死なれた主イエスを信じる、ということを血を飲む・肉を食べるという表現で語られたのです。
 まさに永遠の命を得るためには他に方法はありません。十字架につけられて死んでくださったこの主イエスを信じることです。私たちは、罪を犯し、神の前に死んだものでした。神との関係が断たれ、滅びに向かって歩んでいました。しかし、そんな私たちを救うために主イエスは来てくださいました。そして、主イエスが父なる神によって生かされていたように、わたしたちは主イエスによって生きるのです。

ヨハネ 6章60〜71節     2019年9月30日

シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」。(68)

 主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」とおっしゃった時、それは十字架の上でご自身の肉を裂き、血を流してくださった主イエスを信じるということをあらわしていました。しかし、この時にはまだユダヤ人たちは、主イエスが十字架で死なれることも分かっていませんでしたし、主イエスが語られた言葉をただ表面的にとらえて、「これは、ひどい言葉だ、誰がそんなことを聞いておられようか」とつぶやきました。そして多くの弟子たちが主イエスのもとを去って行きました。
 主イエスは十二弟子に「あなたがたも去ろうとするのか」と問われます。しかしシモン・ペテロは、自分たちはあなた以外のどこにいくことがありましょうと語り、「永遠の命の言をもっているのはあなたです」と告白したのでした。ペテロもまだ全部が理解できていたわけではありません。しかし、彼らは主イエスご自身に信頼し、主イエスに従い、その御言を聞き続けていこうとしていたのです。



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