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ヨハネ 11章1〜16節     2019年10月19日

イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。(4)

 エルサレムから東に三キロほどのところにあるベタニヤという町にマルタ、マリヤ、ラザロ、という三人姉弟が住んでいました。主イエスはこの姉弟をとても愛し、エルサレムに上られた時にはしばしば彼らの家に立ち寄られたようです。そんな家のラザロが病気になってしまいました。ラザロのことを心配した姉たちは、主イエスのところに人を送って、ラザロの病気のことを知らせたのでした。
 しかし、主イエスはその知らせを聞いてもすぐには動かれませんでした。むしろ、主イエスがベタニヤに行こうと腰を上げられたのは、ラザロが死んでからでした。けれども主は、ラザロやその姉たちを見捨てられたのではありません。愛しておられなかったのでもありません。かえって神の栄光がそのことを通してもあらわされようとしていました。主イエスはその三姉弟を愛しておられたのです。

ヨハネ 11章17〜27節     2019年10月20日

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(25〜26)

 主イエスがベタニヤに着かれたのは、ラザロが死んで墓に葬られて四日もたった頃でした。主イエスが来られたことを聞いたマルタはすぐに主イエスを出迎えに行きます。そして主イエスに「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言います。正直なマルタの気持ちだったと思います。
 しかし、主イエスはおっしゃいます。「わたしはよみがえりであり命である」。主イエスは確かに十字架で死に、死を打ち破ってよみがえってくださいました。しかし、主イエスご自身がよみがえられただけではなく、主イエスは、私たちにも死んでも生きるよみがえりの命を与えてくださいます。私たちもやがてよみがえります。確かにこの地上の命はいつかは終わりを迎えるでしょう。しかし、主イエスは、いつまでも死なない、永遠の命を用意し、私たちに与えてくださいます。私たちはとこしえに主と共に生きるのです。

ヨハネ 11章28〜44節     2019年10月21日

イエスは涙を流された。(35)

 マルタは家に戻って、マリヤに声をかけます。イエスのもとに来たマリヤはマルタと同じことを口にしました。マリヤは泣き、またマリヤと一緒に来た人たちも泣いていました。主イエスはラザロの墓に向かいます。そして主イエスは涙を流されたのでした。主イエスはこれからご自身がしようとしておられることを知っておられました。実際には泣かなくても良かったはずです。しかし、主イエスは悲しみの中にいるマリヤや人々と共に泣いてくださいました。
 けれども、主イエスは泣いて終わりではありません。ラザロの墓の前に立ち、墓の入り口の石を取りのけさせました。葬られてもう四日ということでマルタはためらうのですが、主イエスは「もし信じるなら神の栄光を見るといったではないか」と迫られたのでした。
 そして主イエスは墓の前で祈り、大声で「ラザロよ、出て来なさい」と語られます。するとラザロはよみがえって出て来たのでした。私たちの地上の生涯が終わっても、主はやがて私たちを呼び、よみがえらせてくださる日が来るのです。

ヨハネ 11章45〜57節     2019年10月22日

彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。(51〜52)

 多くの人たちがラザロの復活の奇跡を見て、聞いて、主イエスを信じました。パリサイ人たちや祭司長たちもそのことを聞きました。しかし、彼らは主イエスを信じませんでした。そうではなく、彼らは自分たちが与えられている地位や特権を守ることに心奪われていました。彼らが心配していたのは、主イエスを信じる人たちがどんどん増えていって暴徒化し、ローマ人の介入を招いて、今、自分たちが許されている限定的な自由や繁栄も自分たちから奪われてしまうということでした。
 大祭司カヤパは、全国民が滅びないためには、ひとりの人が死ぬのは致し方ない、と語ります。このカヤパの発言は図らずも、主イエスがこの地上に来られた目的をよく言い当てていました。主イエスは、私たちが滅びないために、そして世界中に散らされている神の子たちが一つになるために、死んでくださったのです。主イエスの十字架の時が近づいていました。



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