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ヨハネ 12章1〜11節     2019年10月23日

その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。(3)

 過越の祭の六日前、主イエスのエルサレム入城の前日、主イエスはエルサレムの東側にあるベタニヤ村におられました。そこはあのマルタ、マリヤ、ラザロの姉弟のいた村です。夕食が用意され、マルタは給仕をしていました。ラザロは主イエスを接待し、他の客たちをもてなしています。またマリヤがいません。この時、マリヤが何をしようとしていたかはマルタやラザロも知らなかったでしょう。マリヤは非常に大胆なことをします。高価で純粋なナルドの香油を持ってきて、主イエスの足にぬり、自分の髪の毛で拭ったのでした。それは非常に高価なもので、男性の一年分の給料にも相当するようなものでした。それを彼女はイエスさまに用います。主イエスは、「葬りの日のため」とおっしゃいましたが、マリヤにはこれから主イエスがなさろうとしておられたことが分かっていたのかもしれません。香油のかおりは家いっぱいに満ちました。私たちはどのようなかおりをかぐわせているでしょうか。

ヨハネ 12章14〜15節     2019年10月24日

イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。(10〜11)

 受難週の聖日、主イエスはエルサレムに入って行かれます。主イエスが入って行かれたのはエルサレム神殿の東側の黄金門と呼ばれる門だったとされています。その門は王が神殿に上る時に用いる門でした(今はこの門は閉ざされています)。主イエスを旧約聖書に約束されていたメシヤとしてお迎えしようとしていた民衆たちのボルテージは最高に上がっていました。今にも、主イエスを王とした革命が起こりかねない状況とも言えます。しかし、人々の熱狂とは裏腹に、主イエスの乗っておられたのはろばの子でした。何とも不釣り合いです。弟子たちにもこれは理解できませんでした。やっぱり王には馬が似合います。しかし、主イエスは「ろばの子」に乗らなければなりませんでした。主イエスは柔和な王としてろばの子に乗って来られるということがゼカリヤ九章9節に預言されていたことだったのです。主イエスはまさに戦いと力で世を治めるのではなく、柔和と平和をもって世を治めるために来られたのです。

ヨハネ 12章20〜36節     2019年10月25日

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(24)

 過越の祭にはギリシャ人たちも来ていました。彼らはどこで主イエスのことを聞いたのか分かりませんが、主イエスのことを知って、ピリポに取り次ぎを依頼します。ピリポはそのことをアンデレに伝え、ピリポとアンデレは主イエスのところに来て、ギリシャ人たちのことを伝えます。ピリポたちとしては主イエスの教えが世界に広まっていく好機ととらえられたかもしれません。しかし、主イエスはこの時には、ギリシャ人たちに会おうとはされませんでした。ギリシャ人たちが主イエスとここで会っていたら、彼らは主イエスを信じ、受け入れたことでしょう。けれども、それでは主イエスの十字架のご計画が狂ってしまいかねません。
 主イエスは、ギリシャ人たちのことを聞いた時に、栄光を受けるべき時が来たと感じられました。それは十字架の死を意味していました。主イエスは一粒の麦として、私たちに命を与えるために死のうとしておられました。そして私たちをも、一粒の麦として死ぬことによって豊かに実を結ぶ歩みへと招いておられるのです。

ヨハネ 12章37〜43節     2019年10月26日

しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。(42〜43)

 主イエスはこの地上で人々を教え、また多くのしるしを行われました。ですから、主イエスの言葉を素直に聞き、またそのしるしを先入観なしに見るなら、主イエスを信じるしかないことは明らかです。しかし、人々は主イエスを信じませんでした。特に、神を礼拝し、また人々を導くべき宗教家たちは主イエスを受け入れようとはしませんでした。しるしを見ても見なくても、信じないと決めていたのです。それは預言者イザヤを通して神が語っておられたとおりでした。イザヤの預言を聞くときに、宗教家たちは、自分たちはメシヤを拒むことはない、と確信していたでしょう。しかし、実際にメシヤとして主イエスが来られた時、彼らは主イエスをかたくなに拒んだのです。
 役人たちの中にも、主イエスを信じる人は多かったのですが、それを公にすることはできませんでした。彼らは神の目よりも人の目を気にし、自分の職業や地位、宗教家たちの評判を失うことを恐れたのです。

ヨハネ 12章44〜50節     2019年10月27日

イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである・・・」。(44〜45)

 主イエスはここで大声で語られます。そして、「わたしを信じる」ようにと人々に呼びかけられたのでした。そして、「わたしを信じる者は、わたしをつかわされた方を信じるのである」とおっしゃり、「わたしを見る者は、わたしをつかわされた方を見る」のだと語られます。主イエスはまさに、自分と神とを一つのものとして示されたのです。私たちは神を見ることはできません。神は霊なるお方だからです。しかし、神は主イエスをこの世に遣わされました。主イエスは神であられたのに、人になってこの世に来てくださいました。そして、神は、主イエスを通して神を見ること、神を知ることを許してくださったのです。
 主イエスはそのようにして、主イエスを見て、信じる者を闇の中から救い、永遠の命を与えてくださいました。私たちは主イエスに聞き、主イエスを信じるお互いでありたいと思います。



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