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ルカ 8章1〜3節     2019年5月14日

悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ・・・そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。(2〜3)

 主イエスは「神の国の福音」を宣べ伝えながら、町々村々を巡回されました。それは約束された救い主が来られたことによって、神の支配が始まったのだという喜びの知らせであり、自分の罪を悔い改めて、この救い主を信じるようにという招きでした。
 主イエスの弟子たちもその旅行に同行しました。そして弟子たちだけでなく、主イエスについて来る人たちも大勢いたようです。その中には女性たちもいました。彼女たちは主イエスと出会って、それぞれに自分の人生に大きな救いを与えられたのでしょう。マグダラ村のマリヤもその一人でした。そして、そのように主イエスと出会った彼女たちも、それぞれにいろいろなささげものを持ち寄って主イエスとその一行に奉仕したのでした。
 私たちも主イエスに出会い、主イエスの福音にあずかって変えられました。私たちはどのように主に仕えていったらよいでしょう。

ルカ 8章4〜15節     2019年5月15日

良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。(15)

 たくさんの人たちが主イエスの話を聞こうとしてぞくぞくと集まってきました。主イエスはまさに時の人でした。しかし同時に、主イエスは自分の言葉が必ずしも人々に届いてはいないことを知っておられました。神の言葉にはいのちがあります。そして豊かな実を結びます。ただ、そこで大切なのはその命の言葉をどのように聞くかということです。
 主イエスは、四つの種のたとえを通して四種類の聞き方について語られます。道ばたの種にたとえられるのは、聞き流す聞き方。心の中には御言がとどまっていきません。岩の上に落ちた種は、表面的な聞き方。聞いた御言がその人の内側に根を張っていきません。かたくなな心をそのままにしているからです。いばらの地にたとえられるのは、気の多い聞き方。御言よりもいろいろなことが気になって、結局、御言のことは忘れてしまうのです。そして、良い地は聞いた御言を正しい良い心でしっかり守る聞き方です。私たちはどのような聞き方をしているでしょうか。

ルカ 8章16〜18節     2019年5月16日

だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう。(18)

 主イエスはあかりのたとえを話されます。あかりをともしたら、それは他の人たちに見えるようにする。あえて隠すことはしない。そもそも、隠そうとすること自体がどだい無理なのです。秘密にしようとしても、必ず人に知られるようになります。
 どう聞くかということも、まさにこれと同じです。どんな聞き方をしているかは隠しておくことはできません。直前の聖書の箇所でも、主イエスは四つの聞き方を四つの種のたとえを用いてお話になったのですが、よい聞き方をしていたら、必ず実を結びます。そして良い実を豊かに結んでいると、ますます多くを委ねられるようになります。ますます多くを聞くようになります。逆に、いい加減な聞き方をしていると、ますます神様のことがわからなくなります。そうするとますます霊的にも貧しくなっていきます。よく耳を澄まし、心を傾けて御言葉を聞き、従う者でありたいと思います。

ルカ 8章19〜21節     2019年5月17日

神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。(21)

 主イエスのところにお母さんのマリヤと、弟妹たちがやってきました。主イエスに対しては多くの人たちがとても好意的な評価をしていたのですが、同時に、宗教家たちは、主イエスがどんなに力強い話をしていても聞く耳を持ちませんでした。また主イエスの大きなしるしを見ても、主イエスを信じることを拒み、かえって主イエスの悪口を言い続けました。イエス様の家族はそういった宗教家たちのネガティブな評価を耳にして、主イエスのことが心配になったのかもしれません。家族もまだ主イエスを信じることはできないでいました。
 しかし、主イエスの周りには多くの人たちが集まって、近づくことができません。主イエスの家族が来ていることは、イエス様のところにも伝えられました。しかし、主イエスはこの時は自分の家族に会おうとはされなかったようです。「神の御言を聞いて行う者こそが、わたしの家族」と主イエスは語られます。私たちもまた主イエスの家族の一員にされているのです。

ルカ 8章22〜25節     2019年5月18日

イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。(24〜25)

 主イエスは弟子たちと一緒に舟に乗って、ガリラヤ湖の向こう岸に向かわれました。ここに続く箇所を読むと、そこにゲラサの狂人と呼ばれる人の救いの出来事がありますので、主イエスはそのことをある適度知っておられ、彼を会おうとしておられたのかもしれません。
 主イエスは舟の中で熟睡しておられました。よほどお疲れだったのでしょう。嵐の中でも起こされなければ起きないほどでした。神の子が舟の中でも熟睡するほど疲れるような弱さを抱えた人間となってくださったというのは大きな慰めです。主は私たちが時に肉体にも疲れを覚えることを経験的にも知っていてくださるからです。 弟子たちは怖くなって主イエスを大声でたたき起こしました。そして、主イエスは風も波もしずめてくださいました。主は弟子たちにも信仰を求められました。自分たちのことを知っていてくださる神、共にいてくださる主イエスに対する信頼ということです。 

ルカ 8章26〜39節     2019年5月19日

家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい。(39)

 ガリラヤ湖の向こう岸で、嵐の向こうで主イエスと弟子たちを待ち受けていたのはたくさんの悪霊に魂を支配されてしまっていた一人の男でした。レギオンとはローマの軍団のことで、1軍団には六千人の兵士がいたと言われています。それだけ強力な悪霊たちがたくさんとりついていたのでしょう。それまで誰も彼を押さえつけることも、救うこともできませんでした。けれども主イエスは彼をその悪霊から解放してくださいました。
 しかし、町の人々は彼が救われたことをあまり喜びませんでした。それよりも、豚の群れがおぼれ死んでしまった方がショックだったのです。この男の人は、イエスさまにお供したいと申し出ますが、主イエスは彼を止められます。そして彼に特別な使命を与えられたのでした。それは、家に帰って、神がしてくださった大きな御業を証しするということでした。そして、彼は主イエスに言われたとおりに、自分に起こった主のすばらしい救いを町中の人々に語り伝えたのでした。

ルカ 8章40〜48節     2019年5月20日

しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。(46)

 主イエスが戻ってこられると、会堂司のヤイロが、彼の家に来て、十二歳になる自分の娘を助けてほしいと懇願します。主イエスはその求めにこたえて、ヤイロの家に向かわれました。しかし、主イエスの周りには大勢の人たちが押し寄せており、なかなか道を進むことができないほどでした。
 そんな中、一人の女が主イエスに近づいてきました。彼女は十二年間も長血に苦しんでいました。彼女はその病の癒しのためにその財産を使い果たしたのですが、誰も彼女を救うことはできませんでした。いわゆる婦人病であったため、表だって主イエスに近づいて癒しを求めることもできません。彼女は後ろから近寄って、こっそり主イエスのみ衣のふさにさわったのでした。その時、主イエスの内側から力が出ていって、彼女を直ちに癒しました。確かに大勢の人たちがイエスさまに触れていました。しかし、彼女は意図的に、信仰をもって主イエスにさわったのです。主は彼女を人々の前に引き出し、救いと癒しを宣言されたのでした。

ルカ 8章49〜56節     2019年5月21日

しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。(50)

 大勢の人たちが押し迫って、主イエスがなかなか道を進むことができない上に、長血の女の癒しの奇跡が起こって、主イエスは触った人を捜し求められ、ますます時間がたっていきます。会堂司ヤイロにとっては気が気でなかったはずです。しかし、恐れていた最悪のニュースが彼のところに届きます。「お嬢さんはなくなられました」。悲しみで壊れそうになっていたでしょうヤイロに、主イエスはおっしゃいます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。
 主イエスがヤイロのところに着いた時には、すでに娘が亡くなったということで、人々は大きな悲しみの中にありました。しかし、主は娘のところに近づいて、「娘よ、起きなさい」と声をかけられたのでした。娘は即座に立ち上がりました。まさに主は死を打ち破り、死人を生かすことができるお方です。私たちの地上の生涯が終わっても、やがて主の声を聞いてよみがえる復活の朝が来るのです。



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