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ルカ 14章1〜6節     2019年6月30日

それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。彼らはこれに対して返す言葉がなかった。(5〜6)

 あるパリサイ派のかしらがイエスさまを食事に招待しました。おそらく、そこには他のパリサイ派の人々も顔をそろえていたことでしょう。主イエスは取税人でも、パリサイ人でも喜んで一緒に食事をなさいました。主は人々との交わりを大切になさったのです。しかし、その食事会には、ひとつ罠が仕掛けられていたようです。その日は安息日だったのですが、その家に水腫を患っている人が来ていたのです。パリサイ人たちは主イエスが安息日にその病人を癒されるかどうかをうかがっていました。もちろん、主イエスも、そのような彼らの意図にすぐに気づかれました。ですからまず彼らに問われます。「安息日に人をいやすのは、正しいことか」。
 そして主イエスはこの病気の人に手を置いて癒されました。そこに困っている人がいて、自分がその人を助ける力を持っていたら、その人を助けるのは当然のことだからです。

ルカ 14章7〜11節     2019年7月1日

おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(11)

 パリサイ派のかしらの家での食事の場面が続きます。さすがある意味、地元の名士が招いたお客たちですので、それなりの立場や地位をもった人たちが多かったことでしょう。人々は少しでも良い席、上座に座ろうとしていました。その様子を見ながら、主イエスは招かれて席に着くときには上座につかないで、末座に着くようにと語られました。上座に座っていて、後から自分より身分の高い人が来た場合、恥ずかしい思いをしなければならないかもしれない。最初に末座についていたら、主人自らがふさわしい上座へと座らせてくれるだろうというのです。
 自分を高くする人は低くされ、自分を低くする人は高くされます。誰よりもまず主イエスご自身が自らを低くして人となり、しもべとなって私たちに仕えてくださいました。そして神は主イエスを高く引き上げ、ご自身の御座の右に置かれました。私たちもまた主に習い、へりくだって歩むお互いでありたいと思います。

ルカ 14章12〜14節     2019年7月2日

むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。(13〜14)

 その日の食事会はまさにその地元の有力者たちが集まる時だったのだと思います。しかし、主イエスはここで、自分を招いてくれた人に、食事会を開く場合に、友人・兄弟・親族・金持ちではなく、貧しい人・体の不自由な人・足の悪い人・目の見えない人などを招くようにとおっしゃいました。人々を招き、もてなす場合に、自分にお返しをしてくれるような人ではなく、自分に返礼ができないような人を招く・・・そうすると復活の時に神さまの報いをいただくことができるからです。
 見返りを期待して何かをするのではなく、何も見返りを期待しないでよいわざをするのです。主イエスがおっしゃった「貧しい人・体の不自由な人・足の悪い人・目の見えない人」はほとんど誰かに食事に呼ばれることはなかったでしょう。それだけに招かれた時、感謝も大きいことでしょう。また、私たちも本来神様に呼んでいただけるような者ではなかったことを忘れないでいたいと思います。

ルカ 14章15〜24節     2019年7月3日

道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。(23)

 主イエスが招かれていた食事会もすばらしいものだったのでしょう。そこに集まっていた人たちの中に、その日の宴席から神の国での祝いの日に思いを向ける人がいました。神の国の食事の日はどんなに大きな喜びと祝福に満ちていることでしょうか。
 しかし、そこで大事なのは、まず、そこに私たちが入れるかということです。主イエスがお話になったたとえ話では、招待されていた人たちが晩餐会の時刻になってみんな一様にことわったというのです。とても失礼な、あり得ない話です。これは主の祝福を受け継ぐようにと招かれていたイスラエルの民が、神を拒んだことを指し示しています。
 主人は僕たちに、すぐに出て行って、手当たり次第に人々を集めて、晩餐会の会場をいっぱいにするようにと命じたのでした。私たちも恵みによってこの神の国の晩餐会に招かれました。まだ席が余っています。私たちはさらに多くの人たちをこの晩餐会に招くようにと主のご命令をいただいているのです。

ルカ 14章25〜35節     2019年7月4日

自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。(26〜27)

 主イエスの方に大勢の群衆がついてきました。主イエスは、エルサレムへ、十字架へと道を進んでおられる中で、ご自身に従い、ついて行く者としての心得について語られます。主イエスについていくということは、自分の家族や大切にしている人たちを、また時に、自分の命さえも捨てることになるかもしれません。また主イエスについてくる者は、主イエスと同じように、自分が負うべき十字架を負って、主イエスに従わなければなりません。十字架を負うというのは、大きな覚悟を必要とし、また苦しみやはずかしめを意味しているかもしれません。しかし、主に従う者はそれを負うのです。
 そこには覚悟がいります。そんなはずではなかったと後で投げ出すのではなく、ある意味、冷静になってよく考え、計算し、その上で覚悟を決めることが必要です。自分の財産を全部握ったままで主に従うことはできません。塩としての使命を果たすために、主をしっかり見つめて主に従うことが求められているのです。



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