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ルカ 20章1〜8節     2019年7月27日

祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。(1〜2)

 主イエスが宮で商売をしていた人たちを追い出されたことはすぐに祭司長・律法学者たちの耳に入ったことでしょう。この商売人たちは遠方から主の宮にやって来る人たちの便宜を図るために、ささげもの用の動物を売っていたのであり、また市場で流通している貨幣がローマのものであったために、主に献げる献金用にイスラエルのお金を用意して両替をしていました。誰もそのことに疑問は持っていませんでしたし、おそらく祭司たちが神殿の管理者として、その許可を与え、何らかの謝礼を受け取っていたかもしれません。
 また彼らのいわば職場である神殿で人々を集めて教えておられた主イエスは、誰の許可で・・・と怒りをかったのかもしれません。彼らは何の権威、だれの許可でこれらのことをするのかと主イエスを詰問します。しかし、まさに主イエスは天からの権威をもって語っておられました。彼らも心を開いて神の言葉を聞くべきだったのです。

ルカ 20章9〜19節     2019年7月28日

そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、
『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』
と書いてあるのは、どういうことか。(17)

 主イエスは一つのたとえ話をなさいます。ぶどう園を借りていた農夫たちが、主人の期待を裏切り、自分たちの責任を果たさないばかりか、主人が遣わした、その子を殺してしまったという話です。それは誰が聞いてもひどい話、あってはならない話です。しかし、そのようなとんでもないことをユダヤ人たちはしようとしていました。神から与えられていた使命に生きることをせず、神が遣わされた神の子イエスを殺そうとしていたからです。
 主イエスは捨てられようとしていました。しかし、人々が捨て、拒んだ神の子イエスを神は「隅のかしら石」、建物全体を支える大切な石として立てられました。人々が捨てた主イエスが、救いの岩となられたのです。
 律法学者・祭司長たちはそのたとえの意味を悟りました。しかし、彼らは悔い改めて、神が遣わされた主イエスを受け入れようとはしませんでした。

ルカ 20章19〜26節     2019年7月29日

するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(25)

 宗教家たちは主イエスを言葉のわなにかけ、ローマの総督に訴え出る口実を得ようとしていました。ここで問われたのは「ローマ皇帝に税金を納めてよいかどうか」という問いでした。治めるべきだとおっしゃったら、ローマからの自立を求める民衆の期待を裏切ることになり、主イエスを救い主と期待している人たちはすぐに散っていってしまうでしょう。もちろん、税金を納めるべきではないとおっしゃれば、ローマ皇帝に反逆する者として、訴え出ることができます。
 主イエスはその硬貨にある記号・肖像を尋ねられます。そこにはローマ皇帝の顔が鋳造されていました。主イエスは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいます。私たちは今生きている国の中で、自分に課せられている責任を果たしていきます。けれども同時に、私たちはこの世を超えた神の国の責任をも負っています。あなたには神の名が記されているからです。

ルカ 20章27〜40節     2019年7月30日

死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。 (37〜38)

 サドカイ人とは、祭司やレビ人たちの多くが属していたグループですが、彼らはこの世の権力・地位・お金などを握っていました。彼らにとってはローマの支配も悪くはないものでした。ローマの支配者たちはユダヤ人たちの宗教的な自由を認めてくれていたからです。彼らはこの地上にあってもとても恵まれていましたので、死後の世界だとか霊だとか、復活だとかは信じていませんでした。
 主イエスへの問いは、一人の女性が律法の規定に従って順番に何人かの人と結婚したとき、復活後には彼女は誰の妻になるのかというものでした。サドカイ人たちは、このような問いを投げかけて、復活などないのだと言いたかったのでしょう。しかし主イエスは、復活後は結婚のシステムはないのだということを告げ、アブラハムもイサクもヤコブも、この地上の生涯を終えても神の御前になお生きているということを示されたのでした。

ルカ 20章41〜44節     2019年7月31日

このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか。(44)

 ユダヤ人たちは皆、旧約聖書に約束された救い主、メシヤを待ち望んでいました。メシヤ(英語読みするとメサイヤ)とは油注がれた者という意味です。イスラエルでは、祭司・預言者・王といった特別な仕事をする人たちに特別な「任職の油」を注いで、その人を神様のものとして聖別し、その職に当たらせました。ただ後に、メシヤは神が遣わされる特別な救い主を表す言葉となっていきます。そしてこのメシヤをギリシャ語にしたのが「キリスト」という言葉です。
 人々は救い主がダビデの子孫として生まれるという旧約聖書の約束に基づいて、キリストのことを「ダビデの子」とも呼んでいました。しかし主イエスは詩篇百十篇1節の「主がわが主に仰せになった」というダビデの言葉を引用して、「主は(神は)わが主に(キリストに)仰せになった」と、ダビデは自分の子孫として生まれるキリストのことを「わが主」と呼んでいると指摘されます。キリストは、単なるダビデの子ではなくダビデも「わが主」と呼んで待ち望んだお方だと言うのです。そして、このお方は私たちの主でもあります。

ルカ 20章45〜47節     2019年8月1日

イエスは弟子たちに言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする・・・」。(45〜47)

 主イエスは弟子たちに忠告されます。律法学者に気をつけなさい、と言うのです。律法学者は聖書をよく研究しており、人々からも尊敬されていました。また人々を指導する立場にもありました。確かに彼らは知識豊かな指導者たちだったのですが、時に、彼らは自分の知識を誇り、自分の優秀さを誇示し、人々に対して自分を尊敬することを求めました。そして立派なことを言いながら、実は弱い立場にある人たちをしいたげ、貧しい人たちからお金を巻き上げていました。彼らはいつの間にか、自分たちにはその権利があるとさえ思ったのでしょう。
 弟子たちは主イエスの十字架・復活の後、教会の指導者となっていく人たちです。今まで、主イエスと寝食を共にしながら多くのことを学びました。彼らは主イエスの言葉を聞き、主イエスがなさることを見ました。だからこそ、彼らが謙虚になって人々に仕えていくことを主イエスは期待しておられたのです。



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