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ルカ 22章1〜6節     2019年8月7日

そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。(3)

 過越の祭のためにエルサレムに集まっていた民衆たちは主イエスをキリストとして認め、熱狂的に主イエスを受け入れ、その教えに耳を傾けていました。主イエスが群衆に対してご自身をあらわし、直接教えるために許されている時間はとても限られていました。主イエスご自身も熱い思いで人々に神のことを語っておられたことでしょう。
 そのような中で、祭司長たちや律法学者たちといった宗教指導者たちは、恐ろしいことに、神から遣わされた神の子イエスを殺そうとしていました。主イエスを拒むということはまさにこのようなことなのです。
 そしてルカは、イスカリオテのユダに「サタンが入った」と言います。ユダもまた、主イエスが選ばれた十二弟子の一人でした。また旅をしていた主イエスや弟子たちの会計係でもありました。弟子たちからも受け入れられ、信用されていた人物だったのでしょう。しかし、彼は悪魔の声に耳を傾け、悪魔を心に受け入れてしまったのです。油断せずに自分の心を守りたいと思います。

ルカ 22章7〜13節     2019年8月8日

弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。(13)

 過越の祭とは春にもたれるとても大切な祭でした。これはエジプトで奴隷であったイスラエルの民が神の力強い御手で救い出されたことを記念する祭でした。「過越」とは神がイスラエルを救うために、エジプト中のういごの死という大きな災いをもたらそうとされたときに、家の入り口の2本の柱とかもいに羊の血を塗った家は、災いをもたらす主の使いが過ぎ越したということから来ています。
 イスラエルではこの救いの出来事を祝って、小羊をほふって、奴隷生活の苦しみを表す苦菜や、種なしパンとともに食べることになっていました。主イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちと共にこの過越の祭を祝おうとされました。まさに過越の出来事は、主イエスによってもたらされる救いの予表でもあったのです。
 でも一体、どこでその食事をしたらよいのでしょうか。主イエスはそのための準備をすでにすませておられました。席は既に整えられていたのです。

ルカ 22章14〜23節     2019年8月9日

「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい・・・この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」。(19〜20)

 主イエスは弟子たちと共に過越の食事をなさいました。ここで、主イエスは「神の国で過越が成就する時まで」とおっしゃいます。主イエスは十字架の上で、その肉を裂き、血を流して、私たちのためのあがないの業を全うしてくださいました。そしてやがて主イエスが再臨されるとき、その救いの業は完成するのです。その時まで、私たちは、主イエスが十字架の前夜に教えられた聖餐式を守り続けます。
 パンは主イエスが十字架に与えて下さったそのみからだを、ぶどう液は主イエスの血を表しています。その主イエスの十字架の血によって新しい契約が結ばれました。それは主イエスの十字架によって、私たちのためのあがないが成し遂げられ、私たちは自分の業によってではなく、主イエスがしてくださった御業に基づいて、ただ信仰によって救われるというすばらしい契約のしるしなのです。

ルカ 22章24〜27節     2019年8月10日

しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。(27)

 主イエスはまもなく十字架につけられ、私たちの罪とその呪い、神の裁きを全部その身に負って死のうとしておられました。まさに最初の聖餐式で語られたのはそのようなことでした。しかし、弟子たちは主イエスの思いを全く理解していません。この最後の晩餐の場面でも、自分たちの中でだれがいちばん偉いかということで争論を起こしていたのでした。弟子たちはまだ、この時点では主イエスが十字架で死なれるということが分かっていません。多くのユダヤ人たちがそうであったように、キリストはダビデの位について、偉大なイスラエル王国を復興すると信じていたのです。イエスさまの国が樹立されたら、自分たちも国の高い地位につける、という打算があったのかもしれません。
 彼らにとっては偉いとは、人々の上に君臨すること、権力を振るうことでした。「偉い」ということが悪いのではありません。「偉い」の意味を間違えてはいけません。それは人々に仕えるということです。そして主イエスがご自身がそのような模範を示しておられたのでした。

ルカ 22章28〜34節     2019年8月11日

しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。(32)

 主イエスは弟子たちの覚悟がとてもこころもとないものであることを知っておられました。弟子たちは皆、主イエスをを捨てて逃げていってしまうし、またペテロにいたっては、主イエスのことを「知らない」とさえ言う・・・。けれども主イエスはそのような弟子たちを見捨ててはおられませんでした。かえって、そのようなある意味、ふがいない弟子たちのために祈ってくださいました。そして主イエスは弟子たちが「立ち直る」ということも知り、信じておられました。その上で、ペテロに他の弟子たちを励まし、力づけるようにと語られたのです。ペテロだけではありません。ペテロも、他の弟子たちも御国の支配をゆだねられ、イスラエルの十二部族を治めるようになると知っておられたのです。
 私たちの弱さ・罪深さを、私たちは案外知りません。しかし、主イエスはそんな私たちのためにも祈っていてくださいます。

ルカ 22章35〜38節     2019年8月12日

あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。(37)

 主イエスは弟子たちを二人一組で町々村々に遣わされました。その時に主イエスは、弟子たちに最小限のものだけ持って、父なる神に信頼して出て行くようにと遣わされました。そして、その伝道旅行の中で、弟子たちは、神がすべての必要を満たしてくださることを経験していきました。
 けれども、主イエスが捕らえられ、十字架につけられようとするこの時、主イエスは弟子たちに財布や袋、また剣も持つようにとおっしゃいます。それは十字架の場面だけは、神にすがるのではなく、何とか自分の力で切り抜けるようにということではありません。主イエスを裏切り、見捨てようとする彼らが、行き詰まることなく復活の朝を迎えるために、一時的にそれを許し、勧められたのです。
 罪のない主イエスが「極悪人」と断罪され、私たちの罪や汚れを負って死のうとしておられました。神の救いのご計画が成就しようとしていました。 

ルカ 22章39〜46節     2019年8月13日

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(42)

 主イエスは食事がすむと、「いつものように」オリブ山に行かれ、「いつもの場所」で祈ることをされました。その夜は十字架の前夜です。このゲッセマネの祈りと呼ばれる祈りは特別な祈りであり、十字架前夜の格闘とも言える祈りだったと思います。しかしそのような特別な時の特別な祈りが意味をもつのは、普段からの「いつもの」祈りがあるからです。
 主イエスは血のしたたりのような汗を流しながら、ひたすらに祈られました。苦しみもだえて、御使いに支えられなければならないほどまでに真剣に祈られたのでした。主イエスの祈りは、「この杯をわたしからとりのけてください」という祈りでした。主イエスにとって十字架は決して軽々しく受けることができるようなものではありませんでした。しかし同時に、主は「みこころが成るようにしてください」と父なる神にご自身をゆだねられたのでした。

ルカ 22章47〜53節     2019年8月14日

そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。(48)

 主イエスが祈り終わって立ち上がられたときに、ユダに先導された群衆が主イエスを捕らえようとやって来ました。ユダはあらかじめ、主イエスが誰か分かるように、自分が接吻する人がその人だと、サインを決めていました。今と違って、写真も新聞もテレビもない時代です。しかも夜だったのですから、なおさら、主イエスが誰かを見分けるのに助けが必要だったのでしょう。
 接吻は親愛の情を表す挨拶の行為でした。しかしユダは、主イエスに近づき、接吻をもって主イエスを裏切ったのでした。主イエスはユダの名を呼んで、彼に語りかけられます。まだ悔い改めのチャンスは残されていました。けれども、ユダはそのチャンスを生かすことを拒んだのでした。
 主イエスは剣で祭司長のしもべに切りつけた弟子を止められました。そして切り落とされた耳を癒されたのでした。弟子たちはまだここで死んではならなかったのです。後の教会の歩みの中で彼らの果たすべき役割があったからです。

ルカ 22章54〜62節     2019年8月15日

主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。(61〜62)

 ペテロは遠くから大祭司の邸宅に連れて行かれた主イエスについていき、その中庭に潜り込みました。そして、何食わぬ顔をして人々の中に座り、火にあたっていたのでした。そんな彼を見て、ひとりの女中が言いました。「この人もイエスと一緒にいました」。もしかしたら、彼女の言葉にはあまり深い意味はなかったのかも知れません。しかし、ペテロは「わたしはその人を知らない」と言います。そしてペテロは立て続けに、三度、主イエスを否んでしまったのでした。ちょうどその時に鶏が鳴きました。そこを通りかかった主イエスは、振り向いてペテロを見つめられました。
 主イエスの視線は決して、ペテロを断罪するような冷たい視線ではなかったはずです。大きな過ちを犯してしまったペテロをあわれみ、そのような中でもペテロを包み込むような視線を向けられたときに、ペテロは主イエスのお言葉を思い起こしたのでした。そしてこれがペテロにとっての回復の第一歩でした。

ルカ 22章63〜71節     2019年8月16日

彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。(70)

 主イエスはまずユダヤ人の宗教議会で裁判にかけられました。そこで問われたのは、「あなたはキリストか」「あなたは神の子か」という問いでした。主イエスは確かにキリストであり、神の子でした。主イエスがそのようにおっしゃってもそれは嘘にはなりません。かえって、そうではない、とおっしゃったら自己保身のために嘘をついたということになるでしょう。しかし、主イエスが正直に本当のことをおっしゃったときに、ユダヤ人指導者達は、主イエスは神を汚し、冒?して、とんでもない嘘をついているとして、冒?罪で死刑の判決を下したのでした。
 神の子キリストなるお方の前に出る時に、私たちはとても大きく大事な問いをつきつけられます。「わたしは神の子、キリストだ」とおっしゃる主イエスの前にひざまづいて主イエスを救い主として受け入れるか、または主イエスを嘘つきとして拒み、断罪するかです。あなたこそがわたしの救い主ですと感謝して受け入れるお互いでありたいと思います。



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