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ルカ 17章1〜4節     2019年7月12日

もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい。(4)

 主イエスはここで、小さい者のひとりをも罪に誘惑することのないようにと忠告されました。誘惑が来ることは避けられないでしょう。しかし、人々に誘惑をもたらすようなことをしてはいけません。
 またもし誰かが誘惑に陥って罪を犯していたら、その人に忠告することです。もちろん、注意されたり忠告されることは楽しいことではないでしょう。しかし、実は注意・忠告する側の方がより神経をすり減らすのだと思います。もちろん、自分の気にいらないことをなんでもダメ出しするということであってはなりません。愛と祈りをもっていさめることです。それがその人のいのちにかかわることにもなるからです。
 そしてその人が悔い改めるなら、何度でもゆるすことです。ゆるしの中に愛があります。そして、確かにその人は罪を犯しているかもしれませんが、それでも私たちの「兄弟」だからです。

ルカ 17章5〜10節     2019年7月13日

「わたしたちの信仰を増してください」「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。(5〜6)

 弟子たちがイエスさまのところに来て、わたしたちの信仰を増してください」と求めました。それはまさに私たちの願いでもあります。しかし、主イエスは信仰は大小の問題ではないことを語られます。からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木を動かして海に植えることさえできるというのです。ある意味、信仰は小さくてもいい。大切なのはそこに命があるかどうかであり、私たちが信じる対象が、信頼に足るお方であるかどうかです。私たちの信仰がどんなに小さくても私たちが主イエスを信じ、神を信じていたら、何も心配することはありません。
 また信じるということは、決して頭の中で思い込むということではありません。信じるということは信じる主に仕えるということです。そしてそれはたくさん功績を積むということではなく、神に信頼して、自分にゆだねられている務めを日々忠実にこつこつと重ねていくということなのです。

ルカ 17章11〜19節     2019年7月14日

そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(15〜16)

 主イエスがエルサレムに向かう中で、ガリラヤとサマリヤの境を通って行かれた時、十人の重い皮膚病の人たちが、遠くの方から主イエスに呼びかけました。彼らは主イエスに癒していただきかったのです。それはサマリヤ人が一人、ユダヤ人が九人でした。
 主イエスは彼らに「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」とおっしゃいました。そしてその途中で彼らはきよめられたのでした。この重い皮膚病は宗教的な汚れをも意味していたので、治ったときには祭司にそのことを宣言してもらわなければならなかったのです。
 サマリヤ人は大声で主をほめたたえながら、一人主イエスのもとに帰ってきて、イエス様に感謝しました。彼はサマリヤ人でしたので、他の九人とは行く場所が違っていたのかもしれません。ただ他の九人は主イエスに感謝しようと戻って来ることはありませんでした。私たちはどれだけ主に感謝しているでしょうか。

ルカ 17章20〜21節     2019年7月15日

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。(21)

 「神の国はいつくるのか」とあるパリサイ人が主イエスに尋ねました。このパリサイ人の問いは、当時のユダヤ人たちが共通して持っていたとても重要な問いでした。ただ、ここで彼らが「神の国」と言うとき、彼らは神がイスラエルを救ってローマの支配から解放してくださるということを期待していました。そしてその新しい国ではダビデの子孫であるメシヤが王として治め、また全世界にその威光を輝かすと信じられていたのです。
 しかし、主イエスは、旧約聖書で語られている神の国は、目に見える形で来るのではない、実現するのではないとおっしゃいます。それは誰かが治める地上の国ではないのです。
 主イエスは「神の国」とはあなたがたのただ中にある、とおっしゃいました。神の国は信じる者たちの群れの中に実現するのです。そして同時に、あなたがたのただ中にと主イエスがおっしゃった時、人々の真ん中に主イエスがおられたことから、まさに「神の国」は主イエスご自身が神の国とも言えるのです。

ルカ 17章22〜37節     2019年7月16日

ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。・・・人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。 (27〜30)

 神の国はいつ来るのか、という問いに対して、主イエスはさらに言葉を継いでいかれます。人々が「見よ、あそこに」「見よ、ここに」と言ってもだまされてはいけません。神の国が来る前に、メシヤは苦しみを経験しなければならないからです。そして神の国が来るその時は、ある意味、多くの人にとって突然です。ちょうどノアの時のように、またロトの時のように、裁きの時は思いがけない時、今日はその日ではないだろうとみんながたかをくくっている時に来るのです。
 ただ同時に、いつどこでそれがあるのかということは確かに私たちには分からないのですが、目を覚まして見ていると、神様はその予兆を示しておられることに気づきます。いつそれが起こると明言するのは聖書的ではありません。ただ私たちはその時が近くなっていることを主イエスの言葉によって、また私たちの周りに起こってくる様々な出来事を通して知ります。目を覚まして主を待ち望むお互いでありたいと思います。



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