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ローマ 14章1〜4節     2013年10月22日

他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。(4)

 このローマ人への手紙の本文の最後のところで、パウロはローマにある教会の中に起こっていると聞いている問題を取り上げて、そのことについて指針を与えます。それは食物に関する考え方の違いによる対立の問題でした。具体的に多くの異邦人教会で問題になっていたのは肉を食べるかどうかということでした。「信仰の強い人」は何を食べてもさしつかえないと考えましたが、「信仰の弱い人」は野菜だけを食べました。それは当時、市場で売られていた肉は一度偶像の宮に献げられてから流通したものだったからです。また「信仰の弱い人」は様々な場面でつまづいたり、その信仰が揺れ動いたりすることが多かったのでしょう。そして「信仰が強い人(そう思ってる人)」が「弱い人」を批評し、さばいていたのです。
 けれども、パウロは「しかし、彼は立つようになる」と言います。その「信仰が弱い」と言われる人も、主の僕であって、主がその人を立たせてくださるからです。

ローマ 14章5〜12節     2013年10月23日

わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。(8)   

 私たちは「主イエスが救い主」ということについてはひとつですが、実際生活の具体的な事柄についてはいろいろな考え方の違いをもっています。もちろん、明らかに主が禁じておられること、決して越えてはならないことはあります。その部分について妥協を続け、罪や汚れの深みに入っていくとしたら、それはとても恐ろしいことです。しかし、同時に自分の具体的な生活の諸側面を絶対化し、「自分は信仰的で、あの人は不信仰だ」とさばくとしたら、それは大きな間違いです。
 大事なことはひとりひとりが何をするにしても「主のために」しているかどうかということです。私たちが信仰をもってひとつひとつのことをしていく中で、やがて裁きの座の前に立った時に、主に対して申し開きができるということが大切なのです。求められているのは、生きるにしても死ぬにしても、私たちの生活のすべてが「主のために」ということになっているかどうかなのです。

ローマ 14章13〜23節     2013年10月24日

それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。(13) 

 私たちはさばきあってはいけません。大事なことはひとりひとりが何をするにしても信仰によってすることです。ですから、これは罪かもしれない・・・と恐れや不安や疑問ややましい気持ちを抱きながらすることはよいことではありません。
 また、私はよいと思っていても、他の人がよいと思えないことがあります。そのことがそしりの種となったり、つまづきとなったり、兄弟を苦しませることになってしまうことがあります。そのような時には、その兄弟に対する愛のゆえに、自分の主張を譲るべきです。何を食べるか食べないかということは、「永遠」には関わりのないことです。「永遠」に関わらないようなことに関しては義と平和と聖霊における喜びという基準に従って判断すべきです。それが自分の喜びや満足に土台しているかということではなく、平和に役立ち、人の徳を高めるかどうか、人に仕え、キリストに仕えることになるか、という基準に照らし合わせて生きるのです。 



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