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ローマ 11章1〜6節     2013年10月9日

今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。(5)

 語り続け、手を伸ばし続けておられる神を拒み続けたイスラエルの民は見捨てられてしまったのでしょうか。パウロは列王記上十九章のエリヤの実例を上げながらこの問いに答えています。エリヤはイゼベルに脅されて恐れ、逃げながら、神に対して叫びます。自分はひとりで頑張っていて、神を信じ、敬い、従う人は他に誰もいない・・・しかし、神がエリヤに対して答えられたのは、偶像を礼拝しないで、主を恐れる民がなお七千人残されている、ということでした。
 確かに、イスラエルの民は語っておられる主を拒んでいるかもしれません。しかしどの時代にも、主を信じ礼拝する民を神は残しておられます。そして、この「残された民」は信仰のエリート集団なのではなく、神の恵みによって選ばれた民なのです。
 私たちがこうして、今、多くの人たちが主を信じない中で、主を信じる者とされているということはとても大きなことです。私たちはこの神のあわれみと恵みを、心から感謝したいと思います。

ローマ 11章7〜12節     2013年10月10日

そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。(11)  

 イスラエルの民はかたくなになって、主を受け入れようとしませんでした。イスラエルは確かに義を追い求めていたかもしれません。しかし、人間の努力・精進は人間を救いません。自分の義によって、救いを得ようとしていたイスラエルの民は、救いを得ることができませんでした。神が賜物として与えようとしておられた神の義を受け取ることを拒んだからです。
 しかし、イスラエル人たちが十字架の主イエスにつまづいてしまったのは、イスラエル民族が滅びるためではありませんでした。そこには二重の神のご計画がありました。一つは、イスラエル人たちが神を信じることを拒む中で、救いが異邦人に及ぶということでした。律法を与えられ、割礼を受けた肉によるイスラエル人たちだけではなく、信じるすべての異邦人たちに救いが開かれました。それだけではありません。神はそのことによってイスラエル人たちにねたみを起こさせ、イスラエル人をも信仰に導こうとしておられたのです。

ローマ 11章13〜24節     2013年10月11日

神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。(22) 

 信仰をもった異邦人キリスト者たちに、パウロは、「誇ってはならない」と警告します。それは、自分たちが救われたのは神の恵み・その選びによるのであって、そこには何の人間的な誇りも入り込む余地はないからです。また確かにイスラエルの民が切り去られ、自分たちが継がれたとしても、異邦人キリスト者たちを支えているのは旧約聖書という根であり、イズラエル人という元木だからです。
 「慈愛と峻厳」というところを、新改訳聖書・新共同訳聖書では「慈しみと厳しさ」と訳しています。もし、イスラエル人たちが不信仰になった時に切り去られたとしたら、私たちは恵みだから何をしても大丈夫と、神の厳しさを忘れ、たかをくくるべきではありません。神を畏れ、神の御前に信仰をもってきよく歩むべきです。
 また、イスラエルの民をなおも愛し、憐れまれる神のいつくしみは、また私たちにも向けられていることを忘れないでいたいと思います。

ローマ 11章25〜32節     2013年10月12日

神の賜物と召しとは、変えられることがない。(29)

 パウロはこう言います。イスラエル人がかたくなになったのは異邦人が救われるためだった。そして時が来ると、神はイスラエル人を救われる。確かにイスラエル人たちは、信じることを拒み、不従順になって、神の敵となってしまいました。しかし、彼らはなおも神の選びによって、神に愛されている者だ、とパウロは言います。「神の賜物と召し」とは変わりません。神はご自身がその憐れみによって選び、召した者たちを、決して見捨てられることはありませんし、与えられた神の民としての身分とそれに伴う祝福は、神の心変わりによって取り消されることなど決してありません。
 そして、私たちが憐れみをいただいたように、神は必ずイスラエルの民を憐れんでくださるのです。
 私たちの信仰の世界・恵みの世界はまさにそのような世界です。自分たちの精進努力によって救われるのではありません。それは神の恵みによることです。だから、神が変わらない限り、私たちの救いも変わりません。そして神は変わることはないのです。

ローマ 11章33〜36節     2013年10月13日

ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。(33)

 パウロはここまで論じてきて、神の救いのご計画の大きさにまさに言葉を失います。神がイスラエルの民を選び、主イエスがそのイスラエルの子孫として生まれたこと、またイスラエルの民が主イエス・キリストを拒んだことによって、救いが異邦人にも及んだこと、しかしまたなおも主はイスラエルの民を見捨てられず、終わりの時に必ず救ってくださること・・・神の変わることのないご真実、その深い慈しみと知恵を思いつつ神を讃えるのです。
 そしてパウロはすべての歴史も世界もそのみ手の中においておられる力強い神を崇め、すべての栄光を主に帰するのです。
 私たちの周りには、私たちの理解できないことがたくさんあります。けれども、私たちを愛し、支えてくださっている主の力強い御手と深い知恵、そのご計画の中に置かれているということが、私たちにとって何よりの慰めなのです。



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