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ローマ 12章1節     2013年10月14日

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。(1)

 この十二章から最後までは、キリスト者としての具体的な生活について論じられています。私たちのクリスチャン生活はまさに礼拝です。礼拝とは日曜日の朝の一時間を教会で過ごすことではありません。それは確かに日曜日の朝、主にある兄弟姉妹と共に主の御前に出るというところから始まるでしょう。しかし同時に、礼拝はそこで終わるのではなく、そこから始まるのです。礼拝はそこから始まって、私たちの一週間の具体的な生活全部を含んでいます。それは、私たちが自分の具体的な歩みを、神に喜ばれる、聖なる供え物として全く献げていくことなのです。
 ここでパウロは、「神のあわれみによって・・・勧める」と言います。私たちの献身、その土台はどこまでも神のあわれみです。神の憐れみがあるから、それにすがって、私たちは自分を神にささげていくのです。パウロの勧めに対して私たちはどのように応えていったらよいでしょうか。

ローマ 12章2節     2013年10月15日

あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(2)  

 私たちは神の御心を知りながら、いろいろな言い訳をして、この世と妥協することがあります。しかし、少しの妥協がやがて積み重なってやがて大きな妥協になっていきます。私たちはサタンの策略に対して目を覚ましていなければなりません。
 そのためにも大事なことは、私たちが神の御旨をきちんと見分ける力を持つということです。何が善であって、神に喜ばれる全きことであるかを見分け、そしてその神の御旨に従っていくということです。確かに聖書の中には私たちの実際生活の細々なことについての具体的な指示が網羅されているということではありません。私たちは聖書の御言を指針として、神の御旨を見分けなければなりません。そして御霊は私たちにそのことをさせてくださるのです。
 私たちは、神を知らない世界の生き方を捨てて、心の一新によって、造り変えられ、神の恵みによって新しい生き方を始めるのです。

ローマ 12章3〜8節     2013年10月16日

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。(3) 

 神は私たち一人一人にすばらしい賜物を与えてくださっています。与えられている賜物を否定したり、人と比べて、たいしたことはないと卑屈になってはいけません。ただ同時に、それが神から与えられた賜物であるにもかかわらず、それを誇ったり、他の人々を見下げたりしてはいけません。
 神は恵みによって、私たちにそれぞれ異なった賜物を与えておられるます。他の人と同じである必要はありません。賜物に優劣はありません。それが何であれ、自分に与えられている賜物をきちんと認識し、それを主のために、またお互いのために用いることです。
 私たちはみんな違っています。それは体に多くの肢体があるのと同じです。違っているけれども、一つのキリストのからだであり、みんなが一つになってそれぞれの賜物を生かし合うことによって、キリストを今の時代に、私たちの生かされている場にあってあらわしていくのです。

ローマ 12章9〜16節     2013年10月17日

愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。(9〜10)

 私たちを一つに結び合わせるのは愛です。しかし、その愛には偽りがあってはなりません。この世には多くの偽りの愛があります。一見、きらびやかに見えながら、ひと皮むくととんでもないものが隠れているということがあります。私たちは真実な愛をもって愛し合う者たちでありたいと思います。
 では偽りのない愛とはどのようなものでしょうか。偽りのない愛は、悪を憎み退け、正しいことを喜びます。高ぶったり、誰かを見下げたりするのではなく、その人を尊びます。困難の中にある人を助け、共に歩んでいきます。
 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きます。誰かが悲しんでいる時に慰めの言葉をかけること以上に、時に、誰かが喜んでいる時に喜ぶことは難しいものです。表面的には一緒に喜んでいるように見せながらも、心の中ではねたみに燃えているということもあるからです。神に真実な愛を与えていただきましょう。

ローマ 12章17〜21節     2013年10月18日

だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。(17)

 自分に好意をもって近づいて来る人たちに好意をもって接するのは必ずしも難しくはありません。けれども、世の中にはそういう人ばかりではなく、私たちに敵意をもって近づき、悪をたくらむ人もいます。しかし、ここでパウロはキリストにあって救われ、きよめられ、勝利の中を歩むことができるようにと召された私たちは、新しい生き方をするのだと言います。それは悪に対して悪を返すのではなく、悪に対しても善をもって返し、自分に悪意をもって近づく人にも、のろいではなく祝福を返していくという生き方です。
 私たちは自分で復讐する道は捨てたのです。私たちが仕返しをしようとすると、必ず自分がされた以上に相手を傷つけようとします。そして仕返しをすると、それはまた新たな憎しみを生みます。主ご自身が、復讐は私にまかせるようにとおっしゃいました。そして、地上を歩まれた主イエスご自身が、悪をもって悪に報いることなく、人々のために祈られたお方であったことを忘れないでいたいと思います。


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