chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
マルコによる福音書
ルカによる福音書
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
ローマ 13章1〜7節     2013年10月19日

すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。 (1)

 冒頭の聖句は、絶対王政の時代に、王権神授説の根拠とされた御言です。つまり、王は神にその権威を与えられ、また職務を託されているのだから、私たちは神に従うなら当然王にも従うべきである、という考え方です。王たちは、そのように御言を利用して、民衆を自分に従わせようとしたのです。しかし、そのように御言を自分の都合に合わせて利用するのは慎むべきです。確かに、神は王に、その統治をゆだねられたかもしれません。しかし同時に上に立つ者は、神の前にも人の前にもより多くの責任が問われるのです。その責任を果たすことなく、御言をもってきて、人を従わせようとするのは正しい態度ではありません。
 しかし、同時に神が指導者たちに大きな使命を与え、その職務をゆだねておられるのも本当です。ですから、主イエスを信じるお互いも、上に立つ人々のために祈り、彼らが私たちに神に背くことを命じない限り、彼らに従い、また課せられている社会的責任を果たすべきなのです。

ローマ 13章8〜10節     2013年10月20日

人を愛する者は、律法を全うするのである。(8)  

 「互いに愛し合うことの他には、何人に対しても借りがあってはならない」とは、銀行からお金を借りることは非聖書的だと、言っているのではありません(ただ確かに教会の中でお金の貸し借りや商売をすることは慎むべきです。お金の貸し借りは時に人間関係を壊していきます)。ここでは、私たちは愛ということについては、多くの人に借金を負っている、債務超過だ、つまり自分が愛している以上に、他の人に愛を注いでもらっているものだというのです。
 私たちは愛に生きるべきです。律法には多くの戒めがありますが、そのすべてが「自分を愛するように隣り人を愛する」ということに集約されているからです。ですから愛は律法を全うするものなのです。
 パウロは主イエスを知る前にはパリサイ人として、律法を守ることに一生懸命でした。しかし、パリサイ人たちは律法の文言を表面的に守ることに明け暮れて、律法の背後にあり、その土台である、神を愛し、人を愛するということを忘れていました。主イエスはそのことを思い起こさせ、私たちを愛に生きる者へと変えてくださったのです。

ローマ 13章13〜14節     2013年10月21日

あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。 (14) 

 「あなたがたは時を知っている」とパウロは言います。私たちの救いが完成する日、主イエスの再臨される日が近づいているのです。この「時」は眠りこけているときではありません。目を覚まして、主のために励むべき時です。自分の好きなことをして、遊び歩いたり、まだまだ主は来られないからと、やみのわざに加わるような時ではありません。いつ襲ってくるか分からない悪魔の攻撃に備えて、目を覚まし、光の武具を身につけるべき時です。ドンチャン騒ぎや不品行にふけったり、教会の中で争いあったり、ねたみに燃えて足を引っ張り合ったりして、自分の欲望を満たすことに心を向けるべき時ではないのです。
 パウロは「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」と命じました。それは主イエスがこの地上を歩まれたように、私たちも生きるということです。神に信頼し、愛をもって神に仕え、人に仕える歩みをしていくということなのです。

ローマ 13章9〜16節     2013年10月17日

愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。(9〜10)

 私たちを一つに結び合わせるのは愛です。しかし、その愛には偽りがあってはなりません。この世には多くの偽りの愛があります。一見、きらびやかに見えながら、ひと皮むくととんでもないものが隠れているということがあります。私たちは真実な愛をもって愛し合う者たちでありたいと思います。
 では偽りのない愛とはどのようなものでしょうか。偽りのない愛は、悪を憎み退け、正しいことを喜びます。高ぶったり、誰かを見下げたりするのではなく、その人を尊びます。困難の中にある人を助け、共に歩んでいきます。
 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きます。誰かが悲しんでいる時に慰めの言葉をかけること以上に、時に、誰かが喜んでいる時に喜ぶことは難しいものです。表面的には一緒に喜んでいるように見せながらも、心の中ではねたみに燃えているということもあるからです。神に真実な愛を与えていただきましょう。

ローマ 13章17〜21節     2013年10月18日

だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。(17)

 自分に好意をもって近づいて来る人たちに好意をもって接するのは必ずしも難しくはありません。けれども、世の中にはそういう人ばかりではなく、私たちに敵意をもって近づき、悪をたくらむ人もいます。しかし、ここでパウロはキリストにあって救われ、きよめられ、勝利の中を歩むことができるようにと召された私たちは、新しい生き方をするのだと言います。それは悪に対して悪を返すのではなく、悪に対しても善をもって返し、自分に悪意をもって近づく人にも、のろいではなく祝福を返していくという生き方です。
 私たちは自分で復讐する道は捨てたのです。私たちが仕返しをしようとすると、必ず自分がされた以上に相手を傷つけようとします。そして仕返しをすると、それはまた新たな憎しみを生みます。主ご自身が、復讐は私にまかせるようにとおっしゃいました。そして、地上を歩まれた主イエスご自身が、悪をもって悪に報いることなく、人々のために祈られたお方であったことを忘れないでいたいと思います。


礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに