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ローマ 8章1〜4節     2013年9月19日

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(1〜2)

 私たちは罪と死との法則の下に縛られ、がんじがらめにされていました。そのゆえに、律法の要求を知っていても、それを満たすことはできなかったのです。私たちが肉に従い、自分の力に頼って生きている限り、私たちは罪と死から自由になることはできません。
 しかし主は、神の子キリスト・イエスを肉体をもった人間としてこの世に送り、主イエスがその肉において、私たちの罪を負って死んでくださったことにより、私たちに課せられていた律法の要求をすべて満たしてくださいました。ですから、この主イエスにつながる人は罪に定められることはありません。それは私たちの行いによるのではなく、私たちの努力や決心や精進にもよりません。それは主イエスのあがないによる恵みの業であり、このイエスによってもたらされたいのちの御霊の法則が、私たちを罪の法則から解放したのです。このお方の御業により、私たちが御霊によって歩む道が開かれたのです。

ローマ 8章5〜11節     2013年9月20日

キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。(11)  

 ここでは「肉」と「霊」とが対比されています。「肉」とは私たちの肉体のことではなく、自分の力に頼る人間の姿を表しています。それはいつも自己中心で、人を押しのけ、神をも排除して、いつでも自分が世界の中心にいようとします。そして肉はいつでも自分が得をすること、自分がほめられること、あがめられることを目標として歩もうとします。この肉は神に従おうとはしません。かえって神に挑戦し、神に逆らって立とうとします。
 それに対して「霊」とは、人間の霊性のことではなく、御霊によって、キリストのあがないを信じる信仰に立って生きる、キリストにつながれたいのちのことです。それはまさに神の恵みによって生きるということです。御霊によってキリストが私たちのうちに住み、キリストをよみがえらせてくださったように、私たちの死ぬべきからだをも生かし、私たちが神を喜び、神をお喜ばせする歩みができるように、私たちを導いてくださるのです。

ローマ 8章12〜17節     2013年9月21日

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。(15)

 私たちは肉に従い、肉によって、神の要求を満たそうとしても決してそれを果たすことはできません。かえって私たちは自分の弱さ・罪深さの中にがんじがらめになってそこから解放されることはないでしょう。しかし、私たちが罪のゆえにできなかったことをキリストは成し遂げてくださり、私たちのために救いの道を開いてくださいました。
 私たちは神に従います。しかし、それは奴隷としてむち打たれ、こき使われ、自由を奪われて従うということではありません。私たちは神の御霊に導かれ、神の子とされて、神の子として、私たちを愛してくださった父なる神に喜びをもって仕えていくのです。「アバ、父よ」とは子どもが親に対して呼びかけるとても親しい呼びかけの言葉です。私たちは、神との親しいいのちの交わりの中に入れられました。
 私たちは、神の子なるキリストと苦難を共にするとともに、栄光をもともにする、神の相続人にしていただいたのです。

ローマ 8章18〜25節     2013年9月22日

被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている・・・(21)

 パウロはイエスを信じ、イエスを宣べ伝える者として生きる決断をしたために、とても大きな苦難を負うことになりました。そしてそれはパウロだけではありません。パウロはローマのクリスチャンたちも苦しみの中にあることを知っています。しかし、同時に、やがて自分たちにあらわされる栄光と比べたら、それははるかに小さいものです。
 またパウロは自分たちだけではなく被造物も、人間の罪のゆえに苦しみと嘆きの下にあることを知っていました。神が最初、世界を創造し、人間を創造されたとき、神が人間に託し、期待しておられたのは、世界を治めるようにということでした。それは決して自分の私利私欲のために被造物を利用することではなく、神の被造物の頭として、神に造られたものがすべて輝いて生きることができるように支えるということでした。しかし、人間はそれを拒み、被造物は人間の罪のゆえに虚無に服することになったのです。しかし、神に造られた被造物は、やがて自分たちも栄光の自由に入るという望みに生きています。神を信じ、神のものとされた者たちには、そのために責任があるのです。

ローマ 8章26〜27節     2013年9月23日

御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(26)

 「弱いわたしたち」とパウロは言いました。パウロは律法に生き、律法による義を立てようとしていた者として人間の弱さ・愚かさ・罪深さをよく知っていました。しかし、それ以上に人間にとって最大の弱さは、祈ることができない、どう祈ったらよいか分からない、ということです。神の御心にかなうような祈りをする言葉を私たちはもっていない。人間にとっての一番の力の源は祈りであるのに、それができない、というのは何と悲しいことでしょうか。
 しかし御霊は、その一番の弱さに触れて、私たちを助けてくださいます。真実な「切なるうめきをもって」私たちのために祈り、とりなしていてくださる。私たちの貧しい祈りを受け止めて、神の御旨にかなう形に整えて、父なる神に届けてくださるのです。何という大きな、力強い助けでしょうか。私たちはこの御霊に信頼して、神に近づき、大胆に祈らせていただきたいと思います。

ローマ 8章28節     2013年9月24日

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(28)

 昨日読んだところには、御霊は弱い私たちを助けてくださるとあり、それは祈りを支えてくださるのだということを学びました。それでは、私たちはなぜ祈るのでしょうか。それは、私たちが祈る神は、私たちと共に働いて万事を益にすることがおできになるお方だからです。
 この御言はいわゆる「人間万事塞翁が馬」というような意味で、いろいろ災難だと思うようなことがあっても落ち込んではいけない、必ず、それも善きに変えられるから・・・というような意味ではありません。
 神は私たちをそのご計画をもって召してくださり、召した者の生涯に責任をもってくださいます。万事を益としてくださるというのも、必ずしも私たちが望むような結果にすべてが変えられるということではないでしょう。しかし、神は私たちに何が一番益であるかをご存じです。そして、神はずべてを私たちの益へと変える力をもっておられるのです。神の愛に信頼し、神を愛して歩みたいと思います。

ローマ 8章29〜30節     2013年9月25日

そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。(30) 

 神は私たちが神を知る前から私たちのことを知っていてくださいます。そして、私たちを御子のかたちに似たものとしようとしてくださいました。罪の中を歩んでいた私たちを救い、この地上を神に信頼し、神に従って歩まれた主イエスと同じように生きる者へと変えてくださるのです。
 神は私たちを選び、召してくださいました。私たちは誰も自分の業を誇ることはできません。神のあわれみによる選びが先にあったことを私たちは知っているからです。そして、神が私たちのために主イエスを信じて義とされ救われる道を開いてくださったのです。しかし、神は単に私たちの罪をゆるし、天国に行くことができるようにしてくださったというだけではありません。神は、救われた私たちが神の栄光にあずかることができるようにしてくださいました。それはやがて神の栄光にあずかることができるという未来の出来事というよりもむしろ、すでに信じる者たちのうちに起こっていることです。

ローマ 8章31〜32節     2013年9月26日

ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(32)

 私たちはどのような信仰生涯を送るのでしょうか。主イエスを信じ、救っていただいた私たちのために神はどのような生涯を備えていてくださっているのでしょうか。多くの障害や困難が私たちの歩みの中にもあるでしょう。主イエスを信じ、救いをいただいたのはよいものの、私たちは私たちをつぶしにかかる悪の力の前にどのように戦うのでしょうか。
 しかし、パウロは言います。神が私たちの味方であるなら・・・そうです。神が私たちの味方なのですから、私たちは何も恐れる必要はないのです。神はどんな敵よりもずっと力のあるお方だからです。そして、またこのお方は単に力があるだけではなく、私たちを本当に愛し守ってくださるお方です。私たちはこのお方が、私たちの救いのために何をしてくださったかを知っています。私たちのためにご自身の御子をさえ、惜しまずに与えて下さったのです。そして、このお方は、私たちに本当に必要であるなら、万物をも与えて下さるのです。

ローマ 8章33〜34節     2013年9月27日

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(34)

 サタンは私たちを誘惑し罪を犯させます。しかし、私たちが自分の術中に陥るや手を返したように私たちを訴えます。私たちの罪を指摘し、私たちに注がれている神の愛や神の力を疑わせ、神にも私たちを救う力などないのだと言って、御言を疑わせ、神を信じても無駄だと、神に対する不信仰を植えつけます。私たちを責めて、お前は救われる資格などない、もはや神もお前を愛してなどおられないと信じ込ませようとします。
 しかし、知ってください。神は悔い改めて神を信じる者を救い、義として下さいます。私たちの行いによってではなく、神にすがる信仰のゆえに、私たちを義としてくださる、神が私たちを「義」と宣言して下さるのです。
 罪を犯していることに気づいたらすぐに悔い改めることです。しかし、同時に、神を信じて罪赦されたら、そのことを心配する必要はありません。主イエスはよみがえって、私たちが救われてからの信仰の歩みにおいても、私たちのためにとりなしていてくださるからです。

ローマ 8章35〜37節     2013年9月28日

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(37)

 私たちをキリストの愛から引き離そうとする様々な働きがあるかもしれません。パウロがこの手紙を書いた時代にも教会は様々な困難の中に置かれていました。患難や苦悩・・・原因はいろいろあるでしょう。しかし、信仰をもって歩むということはそのような苦しみや悩みから無縁になるということを意味している訳ではありません。迫害・・・信仰をもったがゆえに様々な迫害に遭うことがあります。パウロはそれはとても自然なことだと受け止めています。飢えや裸・・・主イエスは何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思いわずらうなとおっしゃいましたが、実際にそのような欠けに直面することはとてもつらいことです。危難・剣・・・生命の危険を伴うような状況・・・まさにパウロ自身がそのような厳しい状況の中に置かれていました。しかしパウロはそのような中にあっても、勝ち得てあまりがある、圧倒的な勝利者となる、余裕綽々の勝利だと言います。私たちを愛して下さった方が共にいてくださるからです。 

ローマ 8章38〜39節     2013年9月29日

死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない・・・(38〜39)

 パウロは高らかに宣言します。何者も私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から私たちを引き離すことはできません。神の愛はいつも、私たちと共にあるのです。
 それは死も生も・・・死は関係を断ち切っていきます。しかし、死でさえも私たちと神との関係を断ち切ることはできません。どんな霊的な存在であっても、また地上の権力者が私たちを取り囲んで、私たちを主イエスから引き離そうとしても、今もこれからも、どんなものが私たちをおとしめようとしても、神の愛は私たちから離れません。
 それは、私たちが私たちを愛してくださったお方にしがみついて生きるということではありません。神の方がまず私たちを愛して、私たちが手を離しそうになってしまうような時にも決して私たちを離さない、私たちを見捨てないでいてくださる。私たちは。いつも神との愛の交わりの中に生き続けることができるのです。



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