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Tコリント 15章1〜8節     2013年12月19日

わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、(3) 

 パウロはコリント教会の抱えている次の問題に話を進めていきます。この十五章で取り上げられているのはキリストのよみがえりと死者の復活に関する問題です。コリント教会には死者の復活を否定する人々がいたのです。しかし、主イエスが死を打ち破ってよみがえって下さったということは、決してどうでもよい問題ではありませんでした。パウロが「わたしが以前あなたがたに伝えた福音」「あの福音」「この福音」と言って語ったのは、主イエスの十字架と復活でした。
 「すなわちキリストがわたしたちの罪のために死んだこと」・・・主イエスの十字架は歴史上の事実です。救い主イエスは確かに十字架で死んでくださいました。しかし、その十字架には意味がありました。それは「わたしたちの罪のために」ということです。その十字架にはまさに大きな理由・目的があったのです。
 そして「三日目によみがえられたこと」。パウロは主イエスの復活の証人たちを次々に上げながら、復活の確かさを語るのです。

Tコリント 15章9〜11節     2013年12月20日

しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、・・・わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。(10)

 主イエスの復活はパウロにとっても決しておとぎ話や神話ではありませんでした。まさに、ダマスコ途上で、パウロはよみがえりの主イエスと出会ったからです。パウロは自分が使徒と呼ばれる値うちのない者、使徒の中で最も小さい者であることを自覚していました。実際に彼は教会の迫害者だったからです。そんな自分が生かされ、主イエスと出会い、使徒としていただいたのは、ただただ神の恵みであることをパウロは知っていました。 「恵み」とはあずかる権利のない自分に、無代価で与えられる神の祝福のことです。私たちの救いはまさに、人間の業ではなく、神の恵みによってもたらされます。しかし同時に、恵みにあずかったパウロは、恵みに浸って何もしないということではなく、誰よりも多く働いてきた、と言います。もちろん、パウロはその働きを誇ることはしません。なぜなら、パウロの使徒としての宣教の働きもまた、神の恵みによることだったからです。

Tコリント 15章12〜19節     2013年12月21日

さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。(12)

 「死人の復活」・・・それは私たちに与えられたとても大きな希望なのですが、同時に、それは新約聖書の時代の地中海世界に住む多くの人々にとって大きなつまずきでした。ユダヤ人たちの中でも、サドカイ人たちは死人の復活を信じていませんでした。またギリシャ人たちは肉体と霊とを分けて考え、この地上の生涯の間、人間の魂は肉体の牢獄に捕らわれていると考え、死とは魂の解放と信じていましたから、せっかく肉体から解放されたのに、また体の復活などということは何ともナンセンスに聞こえたのでしょう。
 けれども「死人の復活」がなかったとしたら、主イエスのよみがえらなかったということになり、私たちの信仰は空虚なものになってしまいます。まさに、主イエスの復活は、十字架のあがないが確かであることのしるしでもあったからです。

Tコリント 15章20〜28節     2013年12月22日

アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。(22)

 アダムが罪を犯したことによって、罪と死との支配が人間の世界の中に入って来ました。しかし、主イエスがよみがえってくださったことによって、罪と死との下に捕らわれていたすべての人にいのちの道が示されました。主イエスは確かによみがえってくださいました。それはまさに、これから続く豊かな収穫を確信させる初穂のようなものです。主を信じるすべての人に対してよみがえりの希望が与えられているのです。
 そして主は再臨されるときに、キリストにあるすべての人々をよみがえらせ、私たちを縛っていた最後の敵である死自体をも滅ぼしてくださいます。そのようにしてキリストはすべてのものを従わせ、万物を神の御前にお返しになるのです。
 キリストのよみがえり、そして私たちに与えられている復活の希望はそのような壮大な救いのご計画の中にあって、決して欠かすことのできるものではありません。主イエスは確かによみがえられたのです。

Tコリント 15章29〜34節     2013年12月23日

目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。(34) 

 死者がよみがえらないとしたら、そして私たちの生涯がただこの地上のだけのものだったとしたら、パウロは命がけで福音を伝える必要がなかったでしょう。またもし、死人の復活がなかったとしたら、私たちは何をしようと自由で、自分の好きなことだけをして、この地上の生涯を送ったらよいということになります。
 「死者のためのバプテスマ」というのが何を意味しているかは諸説があって定かではありまぜん。しかし当時のコリント教会にはバプテスマを受けないままで死んだ人たちに代わって洗礼を受けるという習慣があったようです(パウロは他の聖書の箇所で、そのようなことについて触れていませんし、それを推奨しているわけでもありません)。それもまた死人の復活があるという前提の下で行われていた習慣だったのでしょう。
 主イエスはよみがえり、私たちにも復活の希望を与えてくださいました。それゆえに、私たちはこの地上の歩みをも神に対する畏れをもって、身を正して生きるのです。

Tコリント 15章35〜41節     2013年12月24日

あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。(36) 

 聖書が教えているのは霊魂の不滅ではありません。魂が霊的によみがえるということでもありません。聖書が教え、また私たちが信じているのは体の復活です。けれどもそこで復活を信じない人々が問うことの一つは、もし復活があるとするなら、どのような体でよみがえるのかということでした。確かにユダヤ人たちは火葬はしませんでした。遺体に布を巻いて、そのまま墓に納めたのです。そこにも復活への期待はあったことでしょう。しかし、同時に、人々は遺体が徐々に腐敗していき、骨になり、土に帰っていくことも知っていました。
 パウロはこのところで、私たちの地上の肉体は種のようなものだと言います。種は種のままでは実を結ぶことはできません。立派な種であることはゴールではありません。種はまかれて必ず朽ちていきます。そして、種は形を失い、消えていったとしても、必ずまたいのちの芽吹きがあるのです。同じように私たちの体は死んで形を失っても、やがていのちによみがえるのです。

Tコリント 15章42〜49節     2013年12月25日

卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。(43〜44)  

 私たちの体は年を重ねていく中でいろいろなところにガタがきて、痛みを覚えたり、不自由を感じたりします。私たちの肉体は卑しく、弱いかもしれません。しかし、その土に属する肉なるものが滅んでいくときに、私たちは決して再び同じ朽ちる体によみがえるのではありません。私たちが今度よみがえるときには、朽ちない体によみがえるのです。栄光あるもの、強いものによみがえるのです。それは霊のからだです。霊の体というときに、それは決して幽霊になるということではありません。それは、まさに天に属するからだであり、形をもったものなのです。
 そして主イエスは死を打ち破って復活することによって、私たちにこのよみがえりの希望を与えてくださいました。アダムによって死がこの世に入って来たように、主イエスの復活は私たちに死んでもよみがえる希望を与えたのです。

Tコリント 15章50〜55節     2013年12月26日

ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。(51) 

 私たちは、このままの肉体で神の国に入ることはできません。私たちの地上の生涯が終わるとき、私たちはしばらく眠っています。しかし、終わりのラッパが鳴り響くときが来ます。それはまさに主イエスの再臨の時です。そのとき、私たちはまたたく間に変えられて、新しいからだ、朽ちないからだを持つ者へと変えられるのです。そして主イエスの再臨の時に地上にいるキリスト者たちもその姿が変えられます。それはまさに、変貌の山で、主イエスのからだが変えられて、その衣が白く輝いた時と似ています。
 私たちは信仰をもって歩んでいても、やがてこの地上の生涯を終えていきます。もともと死は罪に対する神の裁きとしてこの世に入ってきました。そして私たちが死ぬとき、まるでどんなに信仰をもって歩んでも、死には打ち勝てないようにさえ思えてきます。しかし、知って下さい。主は死を打ち破ってよみがえり、私たちにも勝利を与えてくださいます。死のとげはもうすでに抜かれてしまったのです。

Tコリント 15章56〜58節     2013年12月27日

だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(58) 

 主イエスは死を打ち破ってよみがえってくださいました。そして、その勝利は単に主イエスの勝利であるばかりではありません。主はその復活によって、私たちにも勝利を与えて下さったのです。
 死は、私たちの生涯の中にやって来て、私たちの地上の生涯を終わらせます。ある意味、私たちの多くは自分の生涯を中途半端で未完のまま終わらせることになるのだと思います。どんなに主に用いられた優秀な器であっても、このことは同じです。その意味で、私たちに確かなのは、今日、今、この時だけです。今の時を忠実に生きるということがとても大切なのです。
 そして、私たちの生涯がやがて終わったとしても、私たちがしてきたことが無駄になってしまうことは決してありません。主はすでに死を打ち破りよみがえってくださいました。世界を支配しているのは死ではありません。よみがえって今も生きておられる主が勝利者としていつも共にいてくださるのです。



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