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Tコリント 14章1〜5節     2013年12月14日

愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。(1) 

 前の節で、いつまでも残る三つのもの、信仰と希望と愛、の中で最も大いなるものは愛である、とパウロは書きました。ですからここで、パウロは「愛を追い求めなさい」と言います。愛とは私たちの中に自然と備わっているものではなく、気がついたら身についているというだけのものでもありません。愛は追い求め、願い求める中で、神からの賜物として与えられるものなのです。
 その「愛」という土台をおさえた上で、パウロは異言よりも預言を求めるようにと勧めます。異言はここで聖霊の賜物の一つであり、異国の言葉であったり、また天使の言葉であったりとも言うのですが、その本人の知性を越える霊の言葉であり、本人にもその意味が分からないことがあると言います。ところがそのような異言を用いる人が、時に当時の教会の中に混乱をもたらしていたのです。そしてここでことに預言の賜物と言った時、それは今で言うと、説教の賜物ということになります。神の言葉を聞いて、それを分かる言葉で人々に伝える賜物を求めるようにとパウロは言ったのでした。 

Tコリント 14章6〜12節     2013年12月15日

だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。(12)

 異言の賜物を与えられている人たちは、往々にしてその賜物を誇り、異言を語ることのできない人たちを見下げるようになっていました。それは異言に限らないことです。それがどんなにすばらしい賜物であっても、それは決してそれを自慢し、自己満足に浸るために与えられているのではないのです。
 賜物を求めるのはとても大切なことです。熱心にそれを求め、神の豊かな賜物をいただくように切に祈り求めましょう。しかし、それは決して私たちがそれを誇り、人々に認められるためであってはなりません。神が私たちに賜物を与えて下さるのは、教会を建て上げるためであり、教会の徳を高めるためです。
 ですからパウロは異言について、どれだけ異言を語ることができたとしても、その語っているところが聞いている人に分からないなら、何の役にも立たないし、教会の徳を高めることにならないと指摘します。そのようにしてパウロは教会に秩序を取り戻し、ひとりひとりが教会を建て上げるということに心を向けるようにと教え導いたのです。

Tコリント 14章13〜19節     2013年12月16日

すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。(15)

 パウロは異言について、異言を語るだけでなく、それを解く賜物を求めるようにと勧めます。自分の意思を越えて御霊にとらえられて自分の理解できない言葉を語り、霊によって祈る時、神はそれを聞いてくださるでしょう。しかし、その語ることが理解できなかったとしたら、その本人にも聞いている人々にも何の益にもなりません。最初聖霊が下られたときには聖霊に満たされた弟子たちがその本人も理解できないような、いろいろな国の言葉で神の御業を語りましたが、そこに集まって来た人々には彼らの語っている言葉が分かりました。そして母国語で神の御業を聞いて、その日、多くの人たちが主イエスを信じたのでした。私たちが求めたいのはそのように誰かの救いに役立つような、誰かの徳を高めることにつながるような賜物です。
 「霊性」が「知性」と切り離されてしまうと、それはとても危険です。それは理性を否定し、自己絶対化につながりかねないからです。もちろん、霊性なしの知性も危険です。それは私たちを誇らせ、私たちを信仰から引き離してしまいかねないからです。 

Tコリント 14章20〜25節     2013年12月17日

兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。(20)

 21節の言葉はイザヤ二八11の引用です。イザヤが主の預言を分かりやすく人々に語った時、人々はその神の言葉を受け入れませんでした。そのような民に対して、神はバビロンの軍隊を送って「異国の舌と異国のくちびる」で民に語られました。しかし、それでも民は、主の言葉を受け入れなかったのです。イザヤ書で取り上げられている異言は信じない者に対する裁きの言葉です。私たちは物の考え方では大人となって神の語られる御言葉を素直に聞いて従う者たちでありたいと思います。
 分かりやすい言葉で語られても信じない人たちがどうして異言で語られている言葉を受け入れることができるでしょうか。ですから、パウロは教会につながるひとりひとりが異言ではなく、預言を語ることができるようにと願っています(以前にも触れましたように、ここで「預言」とは未来を予知して語ることではありません。神の言葉を分かる言葉で語ることです)。その預言の言葉を聞いた人がそこにおられる神を崇めるためです。

Tコリント 14章26〜40節     2013年12月18日

神は無秩序の神ではなく、平和の神である。(40) 

 それぞれが御霊の賜物を与えられています。たとえばそれが異言であったら、ひとりずつ順番に語り、その言葉を誰かが解き明かすべきです。解き明かす人がいないときには教会では黙っているべきなのです。また預言の賜物を与えられている人がいるとしたら、順番に語るべきです。みんながてんでんばらばらに語っていたら、何を言っているのか分からなくなってしまいます。他の人が語っているときには黙してその言葉を聞き、自分の番が来た時には人の徳を高める言葉を大胆に語ります。
 賛美や音楽でも同じです。自分は特別な賜物を与えられているからと言って自分の好きなように音楽を奏でたら、それはただの騒音になってしまうでしょう。婦人は教会では黙っていなければならないというのもほとんど教育の機会が与えられていなかった当時の女性の置かれていた社会情勢と教会の秩序に関係して言われていることです。神は無秩序をもたらす神ではなく、秩序の神として、教会の中にも一定の秩序を求められるからです。



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