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Tコリント 6章1〜11節     2013年11月19日

そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。(7)

 パウロはまた教会の抱えている問題を取り上げて注意します。それは教会のメンバー同士で何かトラブルが起こったときに、問題を教会の中で解決するのではなく、教会の外の法廷に持ち出している・・・ということでした。パウロは言います。キリスト者はやがて御使いたちをも裁く者なのだ。兄弟の間のトラブルを自分たちで解決する知恵がないのか・・・。
 パウロは続けます。そもそも訴え合うこと自体が敗北なのだ。そもそも訴えというのはお互いに自分の権利を主張したり、また自分の名誉が傷つけられた時に申し出るものです。パウロは不義を受けていたらよいではないか、だまされていたらよいではないか、と言います。私たちは自分が損をしたり、自分が卑しめられるのが耐えられません。しかし、主はすべてをご存じですし、主は豊かな報いを与えて下さるお方です。また愚かに徹し、損をいとわず、人に仕えて行くこそこそが地上を歩まれた主イエスの生き方だったと思いますが、いかがでしょうか。

Tコリント 6章11〜20節     2013年11月20日

あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。(20)  

 続く箇所で、パウロはまた不品行を行う人たちに対する警告を与えます。私たちは主によってあがなわれ、罪の縄目からも解放されて、自由な者とされました。すべてのことは許されています。しかし、すべてが益になるわけではありません。また私たちは何かに支配されているのでもありません。誰かがダメと言ったから何かをしないとか、しろといわれたからするということでもありません。私たちは神を愛し、人を愛して、一つ一つの生き方を選んでいきます。不品行に捕らわれている生き方は決して自由ではありません。
 またたとえば不品行を行い、遊女と交わる者は遊女と一つのからだになるのです。パウロは言います。あなかたがたのからだは聖霊の宮ではないか。教会が神の宮というだけでなく、ここでは私たちのからだが神の宮だと言います。私たちのからだは神にあがなわれた神のものであって、そこには神が住んでくださるのです。自分のからだをもって神の栄光をあらわすお互いでありたいと思います。



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