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創世記 3章1〜7節     2015年1月20日

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。(4〜5)

 さてへびは巧妙に女に近づいてきます。そして、へびは神の言葉を疑わせ、また神を疑わせます。神がその実を食べるなと言ったのは、それを食べるとあなたが神のようになるからだ、と言われたときに、人は神のようになりたいと思ったのです。罪とは、神の言葉を否定することであり、自分が神の地位に就こうとすることです。神を神としてあがめることをなくしてしまうと、人は生きていくことができなくなります。
 女はついにその実を取って食べ、夫にも与えます。女がまず罪を犯した・・・しかし、「共にいた夫にも与えた」と書かれているところから、夫は妻がその実を食べようとしたときに、黙って見ていた、という議論があります。パウロは人間はエバではなく、最初の人アダムにおいて罪を犯したと論じています。夫は厳しく責任を問われているのです。彼らはその身を食べたときから、裸でいることができなくなります。

創世記 3章8〜13節     2015年1月21日

主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。(8)

 アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたとき、彼らの目が開けて、神のように善悪を知る者となるはずでした。しかし、彼らにはとても惨めな結果が待ち受けていました。サタンはいつも嘘つきです。とても魅力的な話をして、人を自分に従わせようとしますが、私たちが、罪を犯し、神に背いてしあわせになることはありません。彼らが神の言葉に従わなかったとき、今までとても慕わしかった神がとても恐ろしい存在になりました。主の歩まれる音を聞いた時、以前でしたら飛んで出て行って近づいていたでしょうけれど、彼らは神の顔を避けて身を隠したのでした。
 もちろん、どれだけ隠れても神には全部お見通しです。しかし、主は二人に声をかけられます。「あなたはどこにいるのか」。神は知らなかったわけではありません。神はいつも私たちを呼び、御前に引き出し、近づけようとしておられるのです。私たちにとって大切なのはそのままで、主のあわれみに信頼して近づくことです。
 しかし、二人は素直になって悔い改めることができません。アダムはエバのせいにし、エバはへびのせいにしたのでした。

創世記 3章14〜19節     2015年1月22日

わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、
おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、
おまえは彼のかかとを砕くであろう」。(15)

 アダムとエバはその場に倒れて即死するということはありませんでした。しかし、二人が罪を犯したとき、彼らと神との関係がおかしくなり、本来、一番愛し合うはずの夫と妻との間に責任のなすり合いが起こりました。喜びであるはずの夫婦関係が不信と勝ち負けの世界となってしまったのです。また本来、喜びであったはずの労働が苦難となってしまいました。そして人間の世界の中に悲しみや苦しみ、病や死が入り込んできました。
 しかし、そのような中にあっても、主は人間をあわれんでくださいました。神はサタンに対して裁きを告げられます。へびの子孫が女の子孫のかかとを砕くけれども、女の子孫はへびの頭を踏み砕くというのです。この預言は「原福音」と言われています。女の子孫とは主イエスのことです。キリストは確かに十字架で死なれるのですが、このお方はその十字架で、サタンのかしらを完全に踏み砕いてくださったのです。

創世記 3章20〜24節     2015年1月23日

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。(21)

 人は、神の造られたすばらしい園に住むことができなくなりました。彼らはエデンの園の外に追い出されてしまいます。彼らは自分たちが裸であることがわかったとき、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻きました。それはあまりにも貧相なものでした。しかし、神はエデンの園から追い出される彼らのために、皮の着物を造って彼らに着せてくださいます。彼らの裸が覆われたのでした。しかし、彼らの裸が覆われるためには、獣がほふられなければなりませんでした。このこともまた、私たちの救いのために、犠牲が払われ、血が流されることを予感させます。私たちは、私たちのために死んでくださった主イエスを信じ、受け入れるときに、罪がおおわれ、救いをいただくことができるのです。
 アダムとエバが罪を犯したとき、命の木への道は閉ざされてしまいました。しかし、やがて神がその歴史を完成してくださるとき、新しいエルサレムには命の水の皮が流れ、命の木がその両岸に生えています。私たちはその日には命の木の実を自由に食べることができるのです。



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