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Uコリント 11章1〜6節     2014年2月1日

わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。(2)

 パウロは、コリントの人々にあきれはて、冷たく厳しい言葉で非難しているのではありません。確かに反対者たちや、パウロを批判する人々もいたのですが、パウロは、そういった人々も含めて、神の熱情をもって、コリントの人々を熱愛していました。
 そして、コリントの人々を愛しているがゆえに心配もしていました。パウロが宣べ伝えたのとは違うイエスを宣べ伝え、パウロが伝えたのとは違う福音を宣べ伝える人々がいたからです。そしてそういった人々は時に、パウロよりもずっと雄弁に見えました。しかし、パウロはそのような教えに対して警告を発します。
 パウロはコリント教会をきよいおとめとして、キリストに嫁がせようとしていました。しかし、、その大事なきよいコリント教会がサタンの悪だくみにはまって、純潔と貞操を失い、神ならぬものにひかれていくのではないかと心配でならなかったのです。私たちはキリストの花嫁としての装いを整えていただいているでしょうか。

Uコリント 11章7〜11節     2014年2月2日

あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた。(9)  

 パウロは自分がどんなに真実にコリント教会の人々に仕えてきたのか、それをコリントの人々に思い起こさせようとしています。パウロがコリントに福音を伝えたとき、彼は神の福音を文字通り無代価で伝え、コリント教会の人々に負担を負わせることはしませんでした。コリント教会の最初の時期にはまさに天幕造りをして生計を立てていたほどです。パウロはまさに神の福音を伝えながら、時に「貧乏」に苦しみ、「欠乏」を耐え忍ばなければなりませんでした。そして、そのようなパウロの必要を満たし、経済的にもパウロの働きを支えたのがマケドニヤの諸教会だったのです。
 パウロはコリント教会の人々から福音を伝えたことに対する代償を受けようとしていません。それは反対する者たちに不要な批判を受けないためでした。それはあなたがたを愛しているからだ、そのことは神が一番ご存じだ・・・パウロは心を込めてコリントの人々に訴えるのです。

Uコリント 11章12〜15節     2014年2月3日

しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。(14)  

 パウロが、自分はコリント教会の人々からその宣教の対価を受けない、と言うのは、パウロを批判し、自分の知恵を誇り、当然のこととして対価を要求するその当時の偽りの指導者たちと同じにされないためでした。
 そういった偽教師たちは巧みな言葉をもってコリント教会に近づいてきたのでしょう。そしてその言葉は一見、正しく、魅力的に見えました。
 ですからパウロは警告します。「サタンも光の天使に偽装する」。サタンは人をだますのが仕事です。そして実に巧妙に私たちに近づきます。最初は、その語る言葉はとても筋が通っていて、魅力的に聞こえます。しかし、少しずつ、私たちに御言を疑わせ、私たちを愛していてくださる神を疑わせるのです。そして気がついたときには、すっかり魂を奪われてしまう。ですから、人の評判や、耳障りのよさ、また、どれだけ人が集まっているかに目を奪われてはいけません。また誰かが不思議な事をしても、また多くの目に見える祝福を約束し、そのとおりになっていたとしても、だまされてはいけません。最後は必ず、そのしわざはあらわれていきます。

Uコリント 11章16〜33節     2014年2月4日

彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。(23)  

 偽教師たちは巧みな言葉でコリント教会の中に入り込み、パウロに対する不信を植えつけ、主イエスの十字架を信じることによって与えられる救いではなく、別のメッセージを信じ込ませようとしていました。彼らは自分たちこそが、キリストの僕だ、と言いました。しかし、このことに関してはパウロは譲ることができません。パウロは愚かと言われてもそのことについて語り出します。パウロは多くの迫害にあい、また数々の苦難を経験しました。日々、迫ってくる諸教会の心配事があり、また弱ったり、罪に捕らわれている人々のことを思っては、心を痛め、心燃える思いでいました。まさに「キリストの僕」に徹することこそが彼の生き方だったのです。
 私たちは「キリストの僕」でしょうか。自分の周りの兄弟姉妹たちを見て、すばらしいと感嘆し、自分はまだまだだと謙遜して、それで終わってしまってはいけません。キリストの僕ということに関しては決して誰にも譲れない、そんなこだわりを持つくらい、真剣に主の前に立つ者でありたいと思います。



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