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Uコリント 6章1〜2節     2014年1月20日

見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。(2)

 私たちは恵みの時、救いの日に生かされています。私たちはそのことを本当に感謝したいと思います。このようなすばらしい時に生かされている私たちに求められている事がいくつかあります。一つは、神が私たちに与えようとしておられる救いをそのまま信じ、感謝して受け入れることです。やがて門が閉ざされるときが来ます。ですからそのことが差し出されている恵みの時である今、神の和解を受け入れるべきなのです。
 けれども同時に、私たちは恵みを軽んじないように気をつけなければなりません。神を信じながら、罪を犯し続けるということがあってはならないのです。神がどれほど大きな愛を注ぎ、犠牲を払ってくださったかを思い、畏れをもってそれをいただくべきです。主イエスの救いを受け入れて、その後は自分の努力と修練でがんばるということではありません。信じる時も、その後の信仰の歩みにおいても私たちは神の恵みによって進みます。しかし、同時に、神に信頼して、主に従う決断を日々刻々重ねていくということは、私たちに求められていることであり、恵みに生きるということの大切な一側面なのです。

Uコリント 6章3〜10節     2014年1月21日

悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。(10) 

 パウロは神から託された福音、その福音による和解の務めを果たすために、神の僕として歩んでいました。神の僕として生きるということはそれなりの覚悟がいることです。つまり、神の御名が辱められることなく、崇められるように生きるということです。調子の良いときにもまるで自分の優秀さのゆえに何かができたかのような顔をしない。また、困難の中におかれることがあったとしても、人を呪ったり、おとしめたりすることをしない。その人の中に形作られている神の偽りのない愛によって、人々に仕えて行く・・・それが神の僕の生き方です。
 けれどもどうしたら、そのような歩みが可能になるのでしょうか。主が、私たちのうちに働いてそのことをさせてくださるのです。この主の恵みによって、「貧しいようであるが多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべてのものを持っている」という豊かな歩みができるようになるのです。

Uコリント 6章11〜18節     2014年1月22日

不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。 ・・・わたしたちは、生ける神の宮である。(14、16)  

 パウロはコリントの人々のことを思い、愛し、心を開いて彼らを受け止めようとしていました。そして、コリント教会の兄弟姉妹たちにも、心を開いてパウロの呼びかけに応えてくれることを心から願っていました。
 パウロは、信仰者が信仰を持っていない人々と、全く付き合ってはいけないとは言いません。また誰かが福音を受け入れるために、「すべての人にはすべての人のようになった」とさえ言います。しかし、信仰者が信仰のない人々と何もかも調子を合わせて行くことに対しては警告を発します。それはつり合わないくびきだ。それはきっと妥協をもたらし、汚れを教会の中にも持ち込むことになる。
 「聖」というのは「分離」を意味する言葉だと言います。神によって贖われ、神のものとされ、生ける神の宮とされた聖なる民は、この世と違う価値観を持ち、生き方をしていくのです。



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