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ヨハネ黙示録 22章1〜5節     2015年1月2日

のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。(3〜4)

 その都の大通りの中央には、水晶のように輝くいのちの水の川が流れています。そしてその川の両側にはいのちの木が実を結んでいます。その都には悲しみや呪われるべきものは何もありません。その都の中心には神とキリストとの御座があります。そして、そこで私たちはいつも主を礼拝し、その御顔を仰ぎ見ることが許されます。私たちが毎週守る礼拝はまさにこの天国の礼拝につながっています。私たちはやがてその天の御国の礼拝の列の中に入れられます。
 私たちにとって礼拝は喜びでしょうか。それとも何か義務感に縛られるようにしてそこに身を置いているのでしょうか。礼拝とは何でしょうか。それは単に礼拝のプログラムをこなしていくということではありません。私たちはそこで、主の御前に近づき、主の御顔を拝するのです。私たちを愛し、あがなってくださった主がそこにいてくださるのです。

ヨハネ黙示録 22章6〜11節     2015年1月3日

これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。見よ、わたしは、すぐに来る。(6〜7)

 私たちはこのすばらしい黙示録を読み、味わってきました。それはこの地上の私たちの信仰の戦いの背後にあって、天の戦いがあり、また神の御座における礼拝が献げられていることを私たちに思い起こさせます。また私たちの地上の歩みはやがてきたるべき歴史の完成の時につながっているという希望に私たちを導きます。神が私たちに語って下さったまことの言葉を私たちは信じ、希望をもって待ち望みたいと思います。
 主は、「わたしはすぐに来る」とおっしゃいました。初代教会の聖徒たちは自分たちが地上で生活している時代の中で、主が再臨されると信じていました。教会は二千年にわたって主の再臨を信じ待ち望んできました。「すぐに」とおっしゃり、「時が近づいている」とおっしゃる主イエスがいつおいでになっても、喜んでお迎えできるように、汚れたものから離れ、義と聖とに生きていくことによって、備えつつ歩んでいきたいと思います。

ヨハネ黙示録 22章12〜16節     2015年1月4日

いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。(14)

 主はアルファであり、オメガです。初めであり、終わりです。始められた方であり、完成してくださる方です。主イエスは創造者であり、完成者です。人となってこの世に下り、人として神への信頼を全うし、その十字架のあがないによって救いの道を開いて下さったお方であり、やがてもう一度この世に戻って来て、私たちの救いを完成し、歴史を完成してくださるお方なのです。
 私たちが主を待ち望みつつ信仰をもって歩んで行く時に、主は必ず、豊かに報いてくださいます。人間が罪を犯し、善悪を知る木の実を食べてしまった時、エデンの園にあったいのちの木への道は閉ざされてしまいました。しかし、私たちはやがて、そのいのちの木の実から自由に食べることを許されるのです。私たちは喜びをもって主が私たちのために備えてくださるすばらしい都に入って行きます。ただそのためには自分の着物を洗うことが必要です。汚れを負ったままでは聖なる都に入ることはできません。そして、主は、その血をもって私たちを洗い清めてくださるのです。

ヨハネ黙示録 22章17〜21節     2015年1月5日

御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。(17)

 私たちは「アーメン、主イエスよ、きたりませ」と心から祈りたいと思います。主は私たちを救い、そのすばらしい救いを無代価で与えてくださいます。真面目な人が救われるのでもなければ、優秀な人が救われるのでもありません。誰であっても、主イエスを信じ、そのあわれみにすがって、主に近づく者に、主はいのちの水を与え、救いを与えて下さるのです。
 私たちは、「主イエスよ、来てください」と言いづらいものを抱えているかもしれません。主の御前に喜びをもって立つことができるという自信がないかもしれません。もし隠された罪を抱えているなら悔い改めましょう。しかし、もし、すでに罪が赦されているなら、安心してください。主はすばらしい祝福を備えて、私たちを招いていてくださるからです。
 私たちは主が語られた言葉に足したり引いたりするのではなく、主の御言をそのまま信じ、喜びをもって、与えられている地上の生涯を歩んでいきたいと思います。アーメン、主イエスよ、来たりませ。



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