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マタイ 17章1〜8節     2018年12月1日

ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。(2)

 「六日ののち」とマタイは記録します。それは、この日に起こった出来事がその場にいた弟子たちにとってとても大きな意味を持っていたからです。彼らはこの日を忘れることができなかったのでしょう。その日、イエスさまと一緒にいたのはペテロとヤコブとヨハネの三人だけでした。主イエスと三人の弟子たちは高い山に登ります。
 ところがその山で、主イエスの姿が変わって光り輝き、その衣は白く輝いたのでした。それはまさに、主イエスが天上でもっておられた栄光のお姿でもありました。
 そして、そこにモーセとエリヤが現れて主イエスと話をしていました。モーセもエリヤもイスラエルが危機の時代にイスラエルを救いに導いた主の器たちです。やがて雲が彼らを覆い、天から声がします。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。それは主イエスがバプテスマを受けられた時にも聞こえた天からの語りかけでした。主は王として、しもべとしてこの世に来てくださったのです。

マタイ 17章9〜13節     2018年12月2日

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。(9)

 主イエスの栄光のお姿を見たということは、そこにいることを許された三人の弟子たちにとって大きな特権でした。彼らはとても興奮していたことでしょう。しかし、主イエスは彼らが見たことを復活の出来事が起こるまでは誰にも話さないようにと命じられました。主イエスは人々を驚かすことによって、人々を御自身に向かせようとはされませんでした。かえって、もしそのことを人々が見たり、知ったりしたら、人々は主イエスを誤解し、主イエスの十字架のあがないを阻止しようとしたかもしれません。私たちの救いのためにどうしても主イエスの受難が必要だったのです。
 律法学者たちはマラキ四5の記述から、主イエスは救い主ではないと言っていました。しかし、マラキが語っていたエリヤはすでに来ていました。マラキが言っていた言葉はバプテスマのヨハネにおいて成就していました。そしてヨハネに道備えをされて、救い主は来ておられたのです。

マタイ 17章14〜21節     2018年12月3日

よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。(20)

 主イエスと三人の弟子たちが山から下りて来たとき、山の下では、残された弟子たちが大変なことになっていました。ある男がてんかんで苦しむ自分の息子を連れてきたのですが、弟子たちにはその親子を助けることができなかったのです。
 主イエスは癒されないと訴えている父親の中に曲がった思いをごらんになり、不信仰をごらんになりました。もちろん、それはこの父親だけの問題ではなかったでしょう。主イエスの時代にも、そのような問題を抱えている人たちがとても多かったのです。主イエスはそのような罪の力に、憤りといらだちをあらわにされながらも、その子から悪霊を追い出してくださいました。
 問題を抱えていたのはこの父親だけではありません。弟子たちも同じです。主イエスは弟子たちに「信仰が足りない」とおっしゃいました。ただここで問題になっているのは信仰の大きさではありません。からし種一粒ほどの信仰でよいのです。私たちの信じるのは主イエスだからです。

マタイ 17章22〜27節     2018年12月4日

「・・・しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。(27)

 ここには主イエスの二回目の受難の予告があります。主イエスが受難の予告をされるときには、必ず復活の予告もしておられます。ただ弟子たちはそこはおそらく耳に入っていません。
 主イエスがカペナウムに来られた時に、宮の納入金を集める人たちがやって来ました。主イエスは神の子ですから、本来宮の納入金を納めなければならない筋合いはないのだとは思います。けれども、主イエスは「彼らをつまづかせないために」とおっしゃいました。正しいかどうか、筋が通っているかどうかということも大切なことです。決して譲ることのできないことがあります。主イエスも、弱い者・小さい者を守ることだとか、信仰だとか、十字架のあがないということに関して決してゆずることはありませんでした。ただ、同時に、本筋でない部分ではゆずられました。十字架以外のつまづきを置くことは主イエスにとっては不本意なことだったのです。



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