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マタイ 6章1〜4節     2018年10月2日

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。(1)

 主イエスの時代の宗教家たちは多くの良い行いをしようとしました。それ自体はすばらしいこと、大切なことです。しかし、問題は彼らがその宗教的な実践を人々に見てもらい、認めてもらおうとしたことです。ですから、彼らは施しをする時にも人々にそのことを告げ知らせ、多くの人に自分がどんなによい行いをしているかをアピールしました。私たちの中にも、奉仕をしたり、よいことをする時に、人から見てもらいたい、人に気づいてもらいたい、人からほめられたいという思いが出てきてしまうことがあるでしょう。けれども主イエスは人に見られるためにするな、と教えられました。
 右の手のしていることを左の手に知らせない、ということは、自分でもそのことを忘れてしまうほどに、ということです。それは隠れたことを見ておられ、決して忘れることのない天の父がおられるからです。そして、その天の父から報いをいただくことが私たちの一番の願いなのです。

マタイ 6章5〜8節     2018年10月3日

あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(6)

 主イエスの時代の宗教家たちは、その宗教的な実践を人々の前でアピールし、自分がどれだけ神の御前に真剣に歩んでいるかを人々に認めてもらおうとしました。彼らは会堂で人々の代表として祈ったり、人々がいるところで大声で朗々と美辞麗句を並べ、信仰的な言葉を使ってすばらしい祈りをしました。そして人々が自分の祈りに感動し、自分を賞賛してくれることを期待しました。またとても目立つ道のつじに立って祈るのも大好きでした。まさに彼らは神に向いているのではなく、人に向いて生きていました。
 しかし、主イエスは、あなたの父なる神は隠れたところにおられると、密室祈祷を勧められました。神は隠れたところで祈る祈りを聞いて答えてくださいます。立派な祈りをしようとか、人に聞かせようとか、人をうならせようとか、自分の熱心さで神の御手を動かそうとか思わないことです。神は私たちの小さな祈りを聞いてくださいます。

マタイ 6章9〜15節     2018年10月4日

天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。(9)

 言葉を重ね、美辞麗句を用い、くどくど祈る宗教家たちに、主は「言葉数が多ければ聞かれるものと思っている」と批判されます。神はすでに私たちに何が必要かを知っておられます。ですから祈りとは何か自分のお願いを神に訴えて、自分の必要を知っていただき、神に何をすべきかをアドバイスするということではありません。祈りとはまさに神との親しい交わりです。
 ここで、主は「あなたがたはこう祈りなさい」と「主の祈り」を教えられました。これは形式的にこの祈りを唱えていればよいということではなく、祈りの本質・祈りの精神・祈りのあるべき姿を教えられたとも言えます。この祈りはまず神をあがめる言葉で始まります。私たちが天の父なる神に一番に求めることは、自分の欲望の実現ではなく、神の御名があがめられることなのです。そして後半は自分たちのための祈りになります。私たちは自分が祈りなしに生きていけない者であることを忘れないでいたいと思います。

マタイ 6章16〜18節     2018年10月5日

それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。(18)

 その当時の宗教家たちの宗教的実践としての、施し・祈りに続いて、ここでは断食について語られます。食事は神に造られた人間が生きるためにとても基本的なことです。しかし、食べることよりももっと重要なことがあります。それが神の前に出るということです。ですから旧約聖書の時代から聖徒たちは、真剣な悔い改めをするとき、またとても切なる求めを神に訴えるときに断食をしました。それは自分がどれだけ本気かを神に訴えて、神の同情を引き、また神に自分の真剣さを理解していただいて、自分の思いを実現していただこうというのではありません。それは強制されてすることではなく、神への思いから出てくる自発的な行為でした。しかし、当時の宗教家たちはその断食さえもルール化し、人々に自分の信心深さをアピールする手段にしてしまっていました。主イエスは断食をするなら人に知られないようにしなさいと教えられます。神は隠れたことを見ておられるからです。

マタイ 6章19〜24節     2018年10月6日

むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。(20〜21)

 お金は私たちが生活するための知恵でもあります。物々交換で生活するということが難しい場合でも、お金と交換することによって生活の自由度や幅がとても広がります。しかし、同時に物々交換ではなかなか蓄えたり、保存したりすることが難しかったものが、やさしくなり、富を蓄えるということが起こってきます。確かに不測の事態のために必要なものを蓄えておくというのは大切なことであり、責任ある行動とも言えます。ただ、人間の欲は、とどまることを知らず、もっと持ちたい、もっと蓄えたいと使い切れないほどの富を独占するようになります。しかし、地上の富は、容易に奪われてしまいますし、天に持っていくことはできません。そして私たち自身がやがては富に支配されるようになってしまいます。
 主イエスは「天に宝を」とおっしゃいました。それは私たちが心を天に向けるためにもとても大切なことなのです。

マタイ 6章25〜34節     2018年10月7日

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(33)

 私たちが地上を歩んで行く時、私たちはいろいろなことを心配します。思いわずらいます。しかし、イエスさまは空の鳥や野の花に目を向けさせられます。空の鳥は何も心配していない。野の花も思いわずらったり、思い悩んだりしない。けれども天の父は空の鳥を養っていてくださる。また野の花をとても美しく咲かせてくださる。その美しさは栄華を極めたときのソロモンにもまさっている、そうイエスさまはおっしゃいました。ましてや天の父は、私たちにそれ以上よくしてくださらないということがあるでしょうか。神様は私たちが心配する以前に、私たちに何が必要かを知っていてくださいますし、そのすべての必要を備え、与えてくださいます。あれやこれやと心配し、求める必要はありません。大事なことは神の国と神の義を求めるということです。後のものは皆、付録のようなものです。おまけばかり求めて、神の支配とその救いに対して無関心ということのないようにしたいと思います。



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