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マタイ 5章1〜12節     2018年9月24日

こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。(3)

 マタイによる福音書は、イエスの教説とイエスの力ある業を塊にして扱おうとする意図を持っています。この5〜7章は、「山の上の説教(山上の垂訓)」として多くの人に愛されてきた主イエスの教えです。この説教は、「さいわいである」という呼びかけから始まります。「さいわい」とは神に祝福されているということです。神が祝福してくださっている人は、この世の規準とは大分違います。心が貧しく、悲しんでおり、柔和で、義に飢え渇き、憐れみ深く、心がきよく、平和を造り出し、義のために迫害されている人・・・ある意味、さいわいとはかけ離れ、またこの世にあっては生きづらさを感じるのではないかというそのような中にある人に、「さいわいだ」と主イエスは宣言してくださいます。
 確かに天国の規準に生きる人は、この世での成功や豊かさに縁が薄いかもしれません。しかし、神のあわれみと慰めの中にあって、神の子として、神を見ながら、神の支配の中に生きる・・・それは何にもまさるさいわいなのです。

マタイ 5章13〜16節     2018年9月25日

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(16)

 主イエスは私たちに対して、「あなたがたは」地の塩、世の光である、とおっしゃいました。主イエスが地の塩であり、主イエスが世の光であるということに関して、私たちは何の異論もありません。その通りだと思います。しかし、私たちが地の塩、世の光だと言われると、少々違和感を感じます。また、神様が私たちに、地の塩、世の光となるようにがんばりなさいと言われるのなら分かります。しかし、ここで主イエスは、あなたがたは、地の塩・世の光である、と宣言されるのです。つまり、私たちは、地の塩・世の光になるために戦っていくのではなく、すでに地の塩・世の光にされており、それにふさわしい歩みをしていくように期待されているのです。
 私たちが与えられている恵みをしっかり理解し、その恵みに生き続けていくことを通して、私たちに触れる人たちが私たちの天の父をあがめるようになることを心から願って歩んでいきたいと思います。

マタイ 5章17〜20節     2018年9月26日

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(17)

 ユダヤ人たちは旧約聖書を「律法」「預言者」「諸書」という三つに分類して理解していました。ですから、ここで主イエスが「律法や預言者」と言われたときには、旧約聖書全体を指しています。主イエスが来られたことによって旧約聖書が古いものとして廃止されたのではありません。まさに、主イエスは旧約聖書を成就し、完成するために来られたのです。旧約聖書も神の言葉ですから、語られた神の言葉が無効になったり古くなってしまうことはありません。聖書の言葉はすべて成就します。また聖書の御言はこれは大事で、これは大事でないとか、これは重要ではないから無視して良いとかいうことはありません。主イエスは、あなたがたの義がパリサイ人の義にまさっていなければ、天国に入れないと言われました。確かにパリサイ人はとても熱心でした。しかし、人間の努力や熱心や真面目さで神の義を全うすることはできません。しかし、すべてを成就してくださった主イエスを信じることによって、私たちは主イエスの義を着せられるのです。

マタイ 5章21〜26節     2018年9月27日

祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、・・・まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。(23〜24)

 主イエスはその当時の人々の律法理解を示し、それに対して、神が求めておられることがどのようなことかを明らかにしていかれます。その当時の人々の律法理解は神の思いとはとてもかけ離れたものになっていたのです。「殺すな、殺す者は裁判を受けねばならない」。当然です。しかし、実際に殺さなかったとしても、兄弟に対して怒る者、「愚か者」「ばか者」と言う者は、いわば殺したも同然なのです。心の中の怒り・憤りをそのままにしておくことは殺人にも等しいことなのです。
 ここでは、主に礼拝を献げようとする時に、自分が誰かに恨みを抱いていたとしたらというだけでなく、兄弟の誰かが自分に何か恨みをいだいていることを思い起こしたら・・・と言います。恨みを抱いているのは相手の方からもしれません。しかし、あなたがまず行って、その兄弟と和解するようにと主イエスはおっしゃいます。本当の和解を与えてくださる主にすがりつつ歩みたいと思います。

マタイ 5章27〜32節     2018年9月28日

しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(28)

 「殺すな」も「姦淫するな」も十戒の中で神がイスラエルの民に命じられたことであり、イスラエルの民だけでなく、神に造られ、あがなわれて神の民とされた私たちにも求められていることです。ただここでも、不倫をしなければよいということではなく、自分の配偶者以外の人を情欲をいだいて見る人は、心の中で姦淫を犯したことになると言われます。もちろん、殺人でも姦淫でも、そのことを実行したかどうかはどうでもよいのだということではありません。一線を越えないという意志は大切です。ただ同時に、神は私たちの心の中をごらんになります。そして外に出てくる実際の罪は、心の中からすでに始まっているのです。
 離婚についても主イエスの時代には、聖書を自分に都合良く解釈して、安易に妻を離縁するということがありました。主は自分勝手に妻を追い出すことを禁じ、立場の弱い女性たちを守られたのです。

マタイ 5章33〜37節     2018年9月29日

あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。(37)

 誓ったら必ず果たす・・・当然のことです。自分の言葉に責任を持つことはとても大切なことです。特に神に対してした約束を守ることはとても重要なことです。ただ主イエスの時代、その誓いについても、どこを指して誓うかによって、絶対に守らなければならないとか、守らないことがあってもよいとか、言われました。しかし、どこを指して誓ったとしても、誓いは誓い、約束は約束です。誓ったけれども守っても守らなくてもどちらでもよいということにはなりません。
 ただそこで私たちは思います。そう言われても、どうしても私たちは人間なのだから誓いを守れないことがありうるではないか。そうです。だから、主イエスは「いっさい誓ってはならない」とおっしゃいました。私たちの言葉には「絶対」ということはないのです。私たちは自分の命のことさえも分からないのです。「しかり」「否」とは「はい」「いいえ」ということです。思いにまかせ、調子に乗って、あることないことを語ったり、「絶対」と言ったりしないようにしたいと思います。私たちは絶対ではないからです。

マタイ 5章38〜42節     2018年9月30日

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい(38,39)

 「目には目を、歯には歯を」というのは、古代バビロニアのハムラビ法典にもある言葉で、それは復讐法とされ、他者の目を傷つけた者は自分の目を傷つけられる、人を殺した者は自分も殺されるという罰則を定めたものでした。しかし、主がモーセにそのことを示された時にはやられたらやりかえせ、ということではなく、復讐はこれ以上はしてはいけないという制限を定められたのだとされています。私たちは復讐するというときに、自分がやられたら、やられた以上に相手にやり返すことを考えます。そして相手もまたやり返された以上の復讐を返してきて、結果、憎しみの連鎖がどこまでも続き、また深まっていくことになってしまいます。
 主イエスは言いなりになれと教えられたのではありません。悪を行う者を我慢せよということでもありません。悪に対して積極的に愛をもって応えて行く道を示されたのです。

マタイ 5章43〜48節     2018年10月1日

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(48)

 「隣り人を愛し、敵を憎め」・・・当然のことです。しかし、主は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられました。それは私たちが天の父の子だからです。天の父は良い者にも悪い者にも恵みを注いでくださいます。主イエスは、完全な者になりなさい、と教えられました。イエスさまは私たちが不完全な者であることを忘れておられるのでしょうか。無理です。主イエスがここで「あなたがたの天の父が完全であられるように」と言われていることをまっすぐに受けとめようとすると、絶対に無理、と思います。もちろん、ここで「完全な者となりなさい」というのは全く欠点も失敗もない者になれということではありません。そのような意味で、天の父のように完全になれと言われたら誰にもそれはできませんし、それができてしまったら、私たちが神様になってしまいます。これは動機における完全・愛における完全だとされています。挨拶をするという小さなところから始めたらよいかと思います。主は私たちをそのような者にしようと招いておられるのです。



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