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ピリピ 2章1〜5節     2014年4月11日

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 (5)

 昨日読んだ聖書の箇所にも、一つの霊・一つ心という言い方がありましたが、この聖書の箇所でもパウロは「同じ思い・同じ愛の心・一つ思い」と語ります。言い換えると、キリスト者の歩みにおいてこのことは決してやさしいことではないのです。
 パウロはここで主イエスを信じる者が一つになっていくためにいくつかの具体的なアドバイスをします。一つは人を自分よりもすぐれた者とするということです。私たちは、とかく自分の良いところと人のダメなところを強調します。しかし、どんな人にも主はすばらしい賜物を与えておられます。人のすぐれた点に目をとめ、そこに学ぶ姿勢を持つことです。次に、自分の事だけでなく他人のことも考えることです。そして、三番目に、キリストの思いを思いとして生きることです。キリストが考えられるように考え、キリストが生きられたように生きるのです。そしてキリストに向かうように他の人々にも向き合うのです。

ピリピ 2章6〜11節     2014年4月12日

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、・・・おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(6、8)

 キリストは神なるお方であるのに、しもべとなって、人間の姿をとってくださいました。人間の姿をとられたと言っても神なるお方なのですから、他の人間に号令をかけ、その権威をもって人々を従わせ、自分に仕えることを強制することもできたはずです。けれども主イエスはさらに自らを低くし、十字架の死に至るまで自らを空しくしてくださいました。主イエスが反論し、自分の立場を弁護しようと思ったらいくらでもできたと思います。しかし、主イエスははずかしめられののしられても、どこまでも父なる神に従順に従い、その苦しみを担われたのでした。私たちはそのような主イエスのお姿に学びたいと思います。
 しかし話はここで終わりませんでした。神はこの主イエスをよみがえらせ、高く上げて、すべてのものがひざをかがめてイエスは主であると告白するようにと、すべての名にまさる名を与えられたのです。

ピリピ 2章12〜18節     2014年4月21日

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(13)

 私たちは、私たちのためにご自身を空しくして、救いの道を開いてくださった主イエスを信じ、仕える者となったのですから、この主イエスの従順にならって、主に従順に仕え、与えられた救いに生きることが大切です。神は私たちのうちに、神に従順に従って生きていきたいという願いを与え、それだけでなく、そのことを私たちの生涯において実現してくださるお方です。
 私たちは罪に満ちた邪悪な世界の中にあって、傷のない神の子とされ、星のように輝いています。ですから、つぶやいたり、疑ったりするのではなく、どこまでも主に従って行くことです。主に従って行く道は、ひょっとしたら、楽な道・自分の居心地のよい歩みではなく、まさに迫害や殉教を意味しているかもしれません。しかし、それは主イエスの道です。ですから私たちはそのような道にあっても喜びをもって進んで行くことができるのです。

ピリピ 2章19〜23節     2014年4月22日

人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。(21)

 パウロは実際にはピリピ教会のことを心配しています。そしてパウロはテモテを遣わそうとしていました。テモテはこの十年間、パウロに仕え、またたびたび、パウロの使者として各地の教会を訪ねていました。テモテは若い働き人でしたが、パウロは、ギリシャ人の父・ユダヤ人の母を持ち、祖母ロイス・母ユニケの信仰を受け継いできたテモテのことを非常に高く評価していました。そしてパウロは父が子に対するようにテモテを愛して指導し、またテモテも子が父に対するようにパウロを慕い、仕えてきました。そして、テモテの錬達ぶりは各地の教会に知られるほどでした。
 パウロはテモテがどんなにピリピ教会のことを心配しているかを知っています。テモテは、自分のことのようにピリピ教会のことを思っていたのです。同時に、パウロはテモテが、自分自身のことではなく、キリスト・イエスを思い、主イエスを求めて歩んでいることを知っていたのです。そんなテモテでしたからパウロは彼に大切な働きを託していったのです。

ピリピ 2章24〜30節     2014年4月23日

彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。 (30)

 ここでパウロはエパフロデトについて語ります。実はエパフロデトはピリピ教会の献金をローマの獄中にいたパウロに届けてくれたのでした。パウロは、エパフロデトの来訪によって大きな慰めと励ましを受け、また経済的にも大きな助けを得たのでした。ピリピ教会の人々はエパフロデトを代表として遣わしてパウロの手伝いをさせようともしたのでしょう。
 しかし、このエパフロデトがローマで病気になります。その病は重く、一事まさに死の危険さえあったのでした。幸いエパフロデトは九死に一生を得ましたが、彼は、自分がローマで病気になったということがピリピの人々にも伝わって、とても心苦しく思っていました。
 パウロはこのピリピ人への手紙を託してエパフロデトを送り返すにあたり、彼のために言葉を添え、エパフロデトのことを「キリストのわざのために命をかけた」とさえ言います。牧会者としてのパウロの姿を見ます。 


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