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レビ記 5章1〜13節     2015年9月7日

もし人が証人に立ち、誓いの声を聞きながら、その見たこと、知っていることを言わないで、罪を犯すならば、彼はそのとがを負わなければならない。(1)

 十戒の中にも、「あなたは隣人について、偽証してはならない」とありますが、裁判において見たこと、聞いたこと、知っていることを正しく語らないのは、罪を犯すことになってしまいます。また知らないのに、調子にのってまるで知っているかのようにいい加減なことを語るのも罪です。私たちの証言は、裁判の席に立つ人の命さえも左右しかねないのです。
 もし、その罪に気づいたら、先ずそのことを素直に認めて告白することです。そして、神に背を向けて神から離れていくのではなく、罪祭を携えて主に近づき、主を礼拝するのです。ですから礼拝においては、罪の悔い改めはとても大切な要素です。そこでは動物の命がささげられなければなりませんでした。そして動物がほふられる度に、民は、自分たちの罪が命をもって贖われなければならないほど深刻なものであることを再確認させられました。そして、この動物の血は、主イエスのあがないを指し示すものだったのです。

レビ記 5章14〜19節     2015年9月8日

こうして、祭司が彼のために、すなわち彼が知らないで、しかもあやまって犯した過失のために、あがないをするならば、彼はゆるされるであろう。(18)

 ここでは「愆祭(けんさい)」が取り上げられています。これは「罪過のためのささげもの」とも言われます。この愆祭も、罪のあがないのためのささげものであることは罪祭と変わりません。ただ「愆祭」には、賠償を加えるという側面がありました。そして、そのことによって、罪を犯した相手からの赦しと和解を得るということがはかられたのです。それは不作為であり、故意ではないかもしれません。確かに主は私たちの心をごらんになり、私たちの意図や関心を見ておられます。しかし、動機が良ければ何でも許されるというのではなく、謝罪と和解は大切な事として受けとめられたのです。
 罪はそれを認めて告白するだけでなく、つぐないが求められるときにはきちんと償って、もう一度、神と人に対してゆるしと和解をいただくことが肝要です。それが、神に近づいて礼拝をする時に欠かすことのできないものであることを主イエスも語られました(マタイ五23〜24)。



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