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レビ記 4章1〜26節     2015年9月5日

油注がれた祭司が罪を犯して、とがを民に及ぼすならば、彼はその犯した罪のために雄の全き子牛を罪祭として主にささげなければならない。(3)

 この四章では罪祭について記されています。私たちは罪を犯します。そして罪を犯した私たちが神の御前に近づいて礼拝を献げるためには、動物が殺されて、罪のあがないがなされなければならなかったのです。
 最初に取り上げられているのは、祭司の罪です。祭司は人々に仕え、神に仕えて、その礼拝を導く務めを負っていましたが、油注がれた祭司自身も罪を犯すことがありました。そしてそのことは民に対しても大きな影響を及ぼすものでした。ですからこの祭司の罪のためのささげものは、全会衆が罪を犯した時と同じ重みを持っており、つかさたる者の罪よりも重く扱われています。
 私たちキリスト者は、主に贖われて、祭司としての務めを負っています。その意味で、キリスト者の罪は、国のリーダーたちの罪にもまさる重みをもっているのだということを心に刻みたいと思います。けれども知って下さい。祭司たちのためにも罪の贖いは備えられていたのです。

レビ記 4章27〜35節     2015年9月6日

一般の人がもしあやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをして、とがを得、その犯した罪を知るようになったときは、その犯した罪のために・・・罪祭をほふらなければならない。(27〜29)

 祭司、全会衆、つかさに続いて、一般の人が罪を犯した場合に関する規定です。罪を犯すときは、故意に、最初から神に反逆する思いに全く支配されてということばかりではないでしょう。これはまずいかもしれない・・・と少しは思うのだけれど、自分の中にある欲や汚れに引かれて、まあいいかと神にそのことを確かめることなく、自分の思いを通してしまう。しかし、神を知っている私たちは、良心のとがめを感じるようになります。そして、御霊の語りかけの中で、確かにそのことが罪であり、神の戒めに背くことであったということに気づくのです。
 気づいたときにはそのことを考えるのを止めたり、悔い改めを拒んだりしないで、罪祭の犠牲を整えて主に近づくことです。私たちの罪祭は雌やぎや、雌の小羊ではなく、十字架の上でご自身をささげてくださった主イエスなのです。



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