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コロサイ 2章1〜5節     2014年5月7日

キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。(3)

 パウロは「あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため」と言います。ラオデキヤはコロサイに近い町で、このラオデキヤにもエパフラスの働きによって教会が生まれていました。パウロは、コロサイへの手紙の他にラオデキヤにある教会にも手紙を書いており、お互いの手紙を交換して読むようにと後で指示しています。パウロはまだ顔を合わせたことのない諸教会の人々のことも心にかけて心配し、また愛し、祈っていたのです。
 というのは、巧みな言葉で彼らを惑わし、キリストの福音から引き離そうとする人々がいたからです。そして、そのような人たちは自分たちは知恵がある、知識があると、自分たちが様々な宗教的な体験を通じて得た知恵を完全なものだと言って、それを誇っていたのです。
 しかし、パウロは、キリストを離れてそのような知識を得ることができると主張したり、それを得たと自慢している人々に対して非常に厳しく語ります。そして言うのです。キリストのうちに全部がある。まさにキリストこそが神の奥義なのです。 

コロサイ 2章6〜7節     2014年5月8日

あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。(6〜7)

 私たちは主イエスを信じて救われました。だとしたら、その後、キリスト以外に何かが必要だとか、キリスト以外の手段をもってより高度な体験を得ることができると思ってはいけません。大事なのは彼にあって歩むことです。キリストは単に私たちの信仰の出発点において主とあがめられるだけでなく、その後の信仰の歩みにおいても主なのです。
 私たちは「彼に根ざし」ていきます。彼に深く根ざし、キリストをしっかりと見つめて生きるのです。私たちの命はまさに私たちが根をはっていく主イエスのうちから流れてくるのです。
 また、私たちは「彼にあって建てられ」ていきます。信仰はまさに日々の積み重ねでもあります。しかし、それさえも、私たちの努力の業ではなく、キリストに信頼する日々を積み上げたものであり、キリストの恵みの業です。そして、私たちは主が願っておられるような姿に造り上げられていくのです。

コロサイ 2章8〜15節     2014年5月9日

キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。(9〜10)

 パウロの時代、教会に入り込んで来た様々な異なった教えには大きく二つの流れがありました。一つはユダヤ主義的な教えであり、もう一つは後にグノーシスと言われるものにつながる教えだったと言われています。
 前者に属する人たちは、主イエスを信じるだけで救われるというよりも、その後、律法を行っていくことが大事であるとし、特に律法に従って割礼を受けることが救いのためには不可欠だと主張しました。パウロはそれに対して、「私たちは手によらない割礼、キリストの割礼を受けた。肉の割礼がないままで死んでいた自分たちを有罪とする証書はすでに十字架にあって塗り消され、無効になってしまった」と宣言します。
 後者に属する人たちは、『自分たちは神の力に満ち満ちていて、その神秘的な経験によって神を知る者となった。この地上の歩みはどうでもよい、自分たちはこんなに満ち満ちたすぐれた経験をしたのだから』と主張しました。しかし、パウロは、「キリストにこそ、すべての神の徳が満ち満ちている。だからキリストにすべてがかかっている」と宣言したのでした。

コロサイ 2章16〜19節     2014年5月10日

彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。(18〜19)

 律法を守ることが信仰と共に大切だと考える人たちは、旧約聖書の律法だけでなく、その律法を守るために、ユダヤ人たちが歴史の中で積み重ねてきた様々な言い伝え、細則なども守るようにと異邦人教会の生まれたばかりのキリスト者たちを惑わしていました。人々が振り回されてしまったのは、業の行いによって救われると言ってもらった方が、私たちには楽だからです。信仰のみによって救われると言われても、何となく不安になってしまう、何かそれに足したくなってくる・・・それが人間の弱さです。しかし、パウロはそのような旧約聖書の律法は、きたるべきものの影であって、それらもすべてキリストを指し示していると語ったのでした。
 自分の業や特別な体験を誇るのではありません。私たちのかしらはキリストであり、このお方にしっかりつながり続けていることによって、私たちは共に強められ、結び合わされ、神にあって育てられていくのです。

コロサイ 2章20〜23節     2014年5月11日

これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。(23)

 人々に立派さをアピールし、自分の宗教性の高さを誇り、また自分の霊性の高さに酔いしれるような信仰者たちがコロサイ教会にはいたのでしょう。「ひとりよがりの礼拝」・・・礼拝は神を讃えるものです。それが自分のきよさを自慢し、自己満足につながるものであってはなりません。「わざとらしい謙遜」・・・自分の謙遜さを自慢する人たちがいます。しかし、それがみせかけの謙遜だったり、単なる自己卑下だったら、傲慢とつながっているとさえ言えます。「からだの苦行」・・・そのような生き方は宗教的に見え、また賞賛されるかもしれません。しかし、それは私たちの信仰の代わりにはなりませんし、また人々に見えるようにするのはもってのほかです。そしてまた、そのような修業は、私たちの肉欲を防いだり、雑念を取り除くことにはつながらないでしょう。それをするのはただキリストと共に死ぬという十字架の御業なのです。


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