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マルコ 12章1〜12節     2019年3月10日

ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。(6)

 主イエスは、自分に食ってかかるような宗教家たちに対して、自分に素直に向き合い、また神のあわれみにすがるように、心を開いて神から遣わされた自分を信じるようにと迫っておられたと思います。ただ彼らは自分たちが間違っていることにどこかで気づいていても、なかなか素直になることが難しかったのかもしれません。主イエスはそのような彼らにまたひとつのたとえ話をなさいます。後で、彼らは主イエスが自分たちに宛ててそのたとえ話をされたことに気づいています。しかし、主イエスは決して彼らに対する当てつけをして、彼らを辱めようとされたのではなく、彼らが悔い改めることを望んでおられました。しかし、まさにそのたとえ話においてもそうであったように、彼らは父なる神の愛とあわれみを踏みにじって、父なる神が遣わされたひとり子である主イエスをなぶり殺しにしてしまうのです。けれども、この主イエスの死こそが私たちに救いをもたらしたのでした。

マルコ 12章13〜17節     2019年3月11日

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(17)

 主イエスのもとに、二の矢、三の矢、というように、次々と主イエスをおとしめようとする者たちが送られてきます。ある者たちは敵意を丸出しにし、またある者たちは笑顔をもって巧妙に主イエスに近づいてきたことでしょう。しかし、主イエスはいずれにしても彼らの本心を見抜いておられ、また神の知恵によって賢く答えられたのでした。
 「カイザルに税金を納めてよいかどうか。おさめるべきか否か」というのが次に彼らが持ち出した問いでした。税金を納めてはいけないとおっしゃれば、主イエスは直ちにローマに対する反逆者ということになりますし、おさめるべきだと答えられれば、主イエスをメシヤだと信じている人たちに大きな失望感を与えることができます。しかし、主イエスは彼らにデナリ銀貨を見せるようにおっしゃいます。そこには皇帝の肖像が刻印されていました。そこで主イエスは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」とおっしゃったのでした。主イエスはこの地上における責任と、神に対する献身と両方が大切であることを示されたのです。

マルコ 12章18〜27節     2019年3月12日

死人がよみがえることについては・・・『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなた。(26〜27)

 サドカイ人たちはその当時の祭司たちやレビ人たちなど、宗教礼拝の中心にいた人たちでした。ただ、彼らはその時代にもとても恵まれた環境にあったため、とても保守的であり、変化を望みませんでした。彼らは天使だとか霊だとかは信じませんでした。彼らは現世的で、死後の世界や復活なども信じていませんでした。彼らが主イエスのもとに持ってきた難問は、復活を信じる人々に彼らが持ち出した問いのひとつだったのでしょう。
 主イエスは聖書や神の力を知っていたら、このような問いは持ち出さなかっただろうとおっしゃり、結婚がこの地上における関係であることを語られました。また主がモーセに語りかけられたときにおっしゃった「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉が決して過去のことではなく、今もそうなのだということを示され、彼らは今も生きており、神は生きている者の神なのだと示されたのでした。

マルコ 12章28〜34節     2019年3月13日

第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 12:30心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。(29〜30)

 ひとりの律法学者が主イエスに近づいてきました。この律法学者は主イエスをわなにかけ、おとしめようというよりは、主イエスと宗教家たちとのやりとりを見ながら、純粋に主イエスに問うてみたくなったのでしょう。聖書の中で一番大切な戒めは何か、というのがその問いでした。主イエスは旧約聖書の全体を二つのことにまとめられました。それは神を愛し、また人を愛するということでした。何をするとか、しないとか、表面的・外面的なことにまさって、神に対する愛がそこにあるかということが問われています。この律法学者は主イエスの答えを聞きながら、本当にそうだと納得したようです。主イエスは彼に対して「あなたは神の国から遠くない」とおっしゃいました。彼が心を開いて、主イエスに聞こうとしていることを評価されたのでしょう。ただ同時に、「遠くない」けれども入っていないという主イエスの指摘がここにはあります。主イエスは聞いて、主イエスにすがり、信じることを求めておられたのです。

マルコ 12章35〜40節     2019年3月14日

律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。(38〜40)

 主イエスはその当時の宗教家たちについて語られました。律法学者たちは聖書をよく読んで、その言葉を書き写して写本を作ったり、また聖書の細部にわたって、その意味するところを厳格に理解し、また従おうとしていました。ただ彼らの宗教生活はとても表面的なもので、人の目を気にしたものでした。そして本当に聖書が教えようとしていた物事の本質を見失っていたのです。それは律法学者たちだけでなく、私たちも容易に陥りやすい落とし穴です。
 また律法学者たちはダビデの子、その子孫としてメシヤが来ると信じ、語っていました。しかし、主イエスは、救い主が単にダビデの子孫であるだけでなく、ダビデがその救い主メシヤを「わが主」と呼んでいると指摘されます。その当時の人々は皆、キリストはダビデの子孫から、イスラエルを治める王として来られると信じていました。しかし、キリストは単に王であるだけではなく、主、礼拝を受けられる神なるお方だったのです。

マルコ 12章41〜44節     2019年3月15日

あの貧しいやもめは、・・・だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである。(43〜44)

 エルサレムの神殿の中心にあったのは聖所です。聖所のエリアに入っていくことができるのはイスラエル人だけでした。美しの門を通ってそのエリアに入っていくとそこは婦人の庭と呼ばれる場所になっており、そこには献金箱が置かれていました。主イエスは、その献金箱のそばで、人々が献金をささげるのを見ておられました。次々にお金持ちがやって来て、たくさんの献金をささげました。ただ彼らはありあまる中からその一部を持ってきて献げたのでした。それは確かに多額であったでしょうし、彼らなりに心からの献金を献げていたことでしょう。ただ少なくとも、彼らには痛みだとか、犠牲を払うということはありませんでした。ところがそこに一人の貧しいやもめがやって来てレブタ二つを献げました。それはイスラエルで一ばん小さな硬貨でした。しかし、それは彼女の全財産でした。主イエスは彼女はだれよりもたくさん献げたとおっしゃいました。神は彼女の心、その思いを知っていてくださったのです。



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