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マルコ 10章1〜12節     2019年3月1日

彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。(8〜9)

 パリサイ人が近づいてきて主イエスに質問をしました。「夫は妻を出しても差しつかえないでしょうか」。パリサイ人の言葉はおそらく主イエスに対するわなだったのでしょう。いけないとおっしゃればモーセの律法を否定していると非難することができますし、差しつかえない、とおっしゃれば、主イエスは多くの女性たちを失望させることになったことでしょう。確かに律法の中で、モーセは離縁状を書いて妻を出すことを許していました。しかし、それは安易な離婚を容認するということではなく、立場が弱く、夫を失ったり離婚したりすると、とたんに窮地に陥ってしまう昔の女性たちを守るためでもありました。ただこの時代、モーセの意図とは裏腹に、男性の側からの離婚の申し出はいろいろな理由をつけて、ごく普通に行われていたようです。
 しかし、主イエスは創世記の言葉を引用しながら、結婚において男女は神に合わされて一体となったのであって、安易に離婚してはならないことを示されたのでした。

マルコ 10章13〜19節     2019年3月2日

「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。・・・だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。(14〜15)

 人々が自分の子どもたちを主イエスのところに連れてきて、主イエスにさわっていただき、祝福を祈っていただこうとしました。しかし、弟子たちは彼らをたしなめます。弟子たちとしては忙しいイエスさまを守ろうとしたのでしょう。また弟子たちの中には子どもを軽く見る、その当時の人々の常識的な考え方がしみついていたのかもしれません。
 しかし、そのことに気づいた主イエスは弟子たちに対して憤られたのでした。普段は基本的に穏やかな主イエスが本気で弟子たちを叱り、憤りをあらわにされたのです。そして主イエスはおっしゃいました。「幼な子をわたしのところに来るままにしておきなさい。止めてはならない」。主イエスは心から幼な子たちを愛し、受け入れられました。そして、「幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、神の国に入ることは決してできない」とおっしゃったのでした。私たちは幼な子の素直さや親を信頼する姿に学びたいと思います。

マルコ 10章17〜31節     2019年3月3日

イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。(27)

 主イエスのところにひとりの男が走り寄ってきて、「永遠の命を受けるために何をしたらよいでしょうか」と尋ねます。他の福音書の平行記事を見ると、彼は青年であり、役人で、かつ資産家だったようです。主イエスは彼に戒めを守るようにとおっしゃいます。しかし彼は小さい頃から戒めを守って、正しい歩みをしていました。しかし、彼には永遠の命を持っているという確信がありませんでした。主はいつくしみの目をもって彼を見つめ、自分の持ち物を売り払い、天に宝を積んでから、主イエスに従ってくるようにとおっしゃったのでした。しかし、彼にはそれはできませんでした。
 主イエスは弟子たちに、「財産のある者が神の国に入るのはむずかしい」とおっしゃいます。弟子たちは驚きます。お金持ちは神に祝福されていると考えていたからです。「それでは誰が救われるのだろうか」と驚く弟子たちに、主は「人にはできないが、神にはできる」とおっしゃいました。私たちを救うのは、神の恵みだけです。

マルコ 10章32〜45節     2019年3月4日

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。(45)

 主イエスは大きな覚悟をもってエルサレムに上って行かれました。その主イエスの並々ならぬ決意は一緒にいた弟子たちにも驚きや恐れを引き起こさせるほどでした。主イエスにとってエルサレムに向かうということは私たちの罪を負って、神に呪われ、捨てられて死ぬということを意味していたからです。
 そんな主イエスの覚悟を知ってか知らずか、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスさまのところにやって来て、主イエスが栄光を受けられるときに、自分たちを主イエスの右と左に座らせてほしいと願い出たのでした。主イエスは彼らに、「あなたがたは自分たちが何を求めているのか、わかっていない」とおっしゃいます。分かっていたら、それでも同じ求めをするのだろうか。主イエスは「私が飲む杯を飲むことができるか」と問われます。主は仕えるために、また多くの人のあながいとして自分の命を与えるために来てくださったのです。

マルコ 10章46〜52節     2019年3月5日

イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。(51〜52)

 主イエスがエリコの町から出発されたとき、バルテマイという盲人のこじきが「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び求めます。彼は叱られても、黙れと言われても、ますます大きな声で叫び求めたのです。主イエスは彼に気づき、「彼を呼べ」とおっしゃいます。「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」という人々の言葉を聞いて、彼は躍り上がって主イエスのもとに来たのでした。
 主イエスはゼベダイの子らにも投げかけられた同じ問いを彼に問われます。「わたしに何をしてほしいのか」。バルテマイは「先生、見えるようになることです」と求めたのでした。彼はたとい誰も自分を癒すことができなかったとしても、主イエスにはおできになる、主イエスは喜んで私の目を開いてくださると信じていたのです。そして彼は主イエスを信じて遠慮なく求めたのでした。主イエスは彼の信仰を喜び、その信仰に答えて彼の目を開いてくださいました。主イエスに従う新しい生涯が始まったのです。



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