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マルコ 11章1〜11節     2019年3月6日

「・・・まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。・・・もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです・・・と、言いなさい」。(2〜3)

 主イエスはついにエルサレムに到着しようとしておられました。弟子たちや主イエスと一緒に過越の祭にあわせてエルサレムにやってきたガリラヤの人々は、主イエスがエルサレムで救い主として王の位に即位される時が来たという期待でとても興奮していました。しかし、主イエスは平和の王として、また私たちのための贖いの死を遂げるために、覚悟を決めてエルサレムに向かっておられました。
 王なるメシヤがエルサレムに入城されるのでしたら、当然軍馬に乗ってエルサレムに行かれるのが一番似つかわしかったと思います。しかし、主は預言を成就するため、また平和の王、柔和なお方でしたから、ろばの子を用いられました。それはまだ誰も乗ったことのないろばの子でした。「主がお入り用なのです」と子ろばを用いられた主イエスは私たちをもご自身のために用いて下さいます。

マルコ 11章12〜19節     2019年3月7日

そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。(17)

 主イエスはエルサレムに上京されるときにはエルサレムの東側オリブ山の向こうのベタニヤを定宿としておられたようです。ベタニヤはマルタ、マリヤ、ラザロが住んでいる町でした。
 主イエスがエルサレムに入城されたのは日曜日でしたが、その翌日、主は宮に入って、宮の庭で商売をしていた人たちを追い出されました。そこでは両替人やはとを売る者などが店を広げていたのです。いずれも、エルサレムの神殿で礼拝する人たちの便宜をはかるためにそこで店をするようになったのでしょう。両替はいつも使っているローマのお金を、神殿で献金をするために用いられるイスラエルの通貨に換金していましたし、また鳩は主に献げるいけにえとして用いられました。しかし、同時に彼らが商売をしていた場所は異邦人のために備えられた礼拝の場・祈りの場でした。主イエスはその祈りの家であるべき場所がにぎやかな商売の場所になっているのが耐えられなかったのです。

マルコ 11章20〜26節     2019年3月8日

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(24)

 月曜日に、主イエスがベタニヤからエルサレムに向かっておられた時、主イエスは空腹を覚えて、いちじくの木に実がないかとさがしておられました。いちじくはイスラル民族を象徴する果物でもありました。実のないいちじくは、結ぶべき実を結んでいないイスラエルを、そのいちじくが枯れてしまったのは、そのようなイスラエルに臨もうとしている神の裁きを象徴していました。
 火曜日の朝に、そのいちじくの木が枯れてしまっているのを見て弟子たちはとても驚きます。主イエスはそのような弟子たちに信仰の力、祈りの力を示されたのでした。神はどうしたって動かないと思える山をさえ動かすことができるお方です。
 ですから主イエスは、祈り求めたことはすでにかなえられたと信じなさいとおっしゃいます。それは何でも私たちの願い通りになるということではありません。主は御心にかなった祈りに必ず答えてくださるのです。

マルコ 11章27〜33節     2019年3月9日

すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう」。(31)

 主イエスが宮の中を歩いていたとき、主イエスのところに祭司長・律法学者・長老たちがやって来ました。彼らはまさに主の宮を管理しているのは自分たちだという誇りと責任を感じていたことでしょう。そのような彼らにとって、自分たちが許している商売人たちを追い出したり、宮の中で多くの人を集めて教えておられる主イエスは越権行為をしているという風に見えたのでしょう。何の権威で、誰の許しでこんなことをしているのかと詰問するのです。
 しかし、主は逆に彼らに問われます。「バプテスマのヨハネは天からであったか、人からであったか」。しかし、彼らはその主イエスの問いに答えられませんでした。答えたくなかったのです。彼らは自分たちなりにバプテスマのヨハネは神に遣わされた預言者だと分かっていたはずです。しかし、彼らはそのことに気づいていながら、神の語りかけを聞き、また従おうとしていなかったからです。



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