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民数記 15章1〜21節     2015年11月23日

これは火祭であって、主に香ばしいかおりとするものである。(10)

 動物をほふって、焼いて主にささげる時には、穀物のささげものと油を混ぜたものを加え、またぶどう酒をささげることになっていました。このようにしてささげられるときに、それは主に香ばしいささげものとなったのです。私たちはこの箇所を読む時に、前の箇所からの流れが何とも不思議に感じます。神に従わなかったイスラエルの物語の後に、以前にもシナイ山で語られた主の律法の言葉、ささげものの規定の補足が告げられるのです。 ここには「あなたがたが、わたしの与えて住ませる地に行って・・・」とあります。これらの言葉は、なおも、主がイスラエルの民を全く捨てられるのではなく、なおも約束の地へと導こうとしておられるしるしであり、また、シナイ山で結ばれた主との契約が、今も生きていることのしるしでもあったのです。
 イスラエルの民は、ささげものの規定を聞きながらも、大きな励ましと慰めを感じ、神のゆるしといつくしみを覚えたはずです。

民数記 15章22〜32節     2015年11月24日

しかし、国に生れた者でも、他国の人でも、故意に罪を犯す者は主を汚すもので、その人は民のうちから断たれなければならない。(30)

 罪についてのいけにえの詳細が再び語られます。まずイスラエルの民が罪を犯した場合には、若い雄牛一頭が燔祭としてささげられ、雄やぎが罪祭としてささげられました。個人が罪を犯した時には一歳の雌やぎ一頭が罪祭としてささげられました。いずれにしても、罪のあがないのためには動物が殺され、その血が注がれなければならなかったのです。この罪のゆるしをもたらす動物の犠牲の血は、後に来られた主イエスの十字架で流された血を指し示すものです。
 また、ここでは個人の罪と、共同体の罪が語られます。個人が罪を犯し、個人が悔い改めるというだけでなく、共同体の罪が問題とされることがあるのです。国の罪、教会の罪、家の罪、ということを考えなければならないことがあります。共同体の罪が問題とされる時には、その共同体につながる者たちが、自分の問題としてそれを受けとめることが大切になって来るのです。

民数記 15章32〜36節     2015年11月25日

イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。(32)

 私たちはこの話を読む時に、何と残酷な・・・と思いますし、またもし、これが聖書の標準だとしたら、私は生きていくことはできないと感じるかも知れません。確かに、十戒が与えられ、神の民としての歩みを始めて行くためにとても大事な時であったということもあるでしょう。実際、後に、イスラエルの民がカナンの地に定住するようになると、安息日も祭もあまり真剣に守られなくなっていきました。ただこの安息日を守るということは、主のものを主にお返しするということであり、神に選ばれた民であることのしるしでもあったのです。教会の時代になってくると、キリスト者たちは、主イエスの復活された日曜日を「主の日」として聖別し、その日の朝に集まって祈るようになっていきます。
 もちろん、この日に何もしないということが大事なのではありません。主イエスは、ご自身が、律法学者たちから律法を破っていると何度も非難されながら、安息日に善を行うことの大切さを説かれたのでした。

民数記 15章37〜41節     2015年11月26日

わたしはあなたがたの神、主であって、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしはあなたがたの神、主である。(41)

 主はこのところで、イスラエルの民に対して、その衣のすその四隅に青ひもで作ったふさをつけるようにと命じておられます。それはイスラエルの民が自分の衣のすそにつけられた青いふさを見るたびに、主のもろもろの戒めを思い起こすためであり、自分が神によってあがなわれて、神のものとされていることを思い起こすためでした。それによって、自分の欲のままに生きることがないように神が与えられた知恵でした。
 イスラエルの民がエジプトで奴隷であったところから救い出されたのは、神がイスラエルの神となり、イスラエルの民がこの神の民となるためでした。そして、神の民となった者たちは、聖なる神のものにふさわしく生きていくように求められていました。それは単なる道徳の問題ではありません。これは神を神として生きるかどうかというとても大切な問いの前に、真実に答えていくということだったのです。



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