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出エジプト記 22章1〜6節   2015年7月21日

もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない。彼は必ず償わなければならない。(1〜3)

 十戒の中でも第六戒に「盗んではならない」とあります。盗んでも見つからなければよいとか、盗んで見つかっても、返せば良いということではありません。もし、盗んだものをすでに殺したり、売ったりしていたら、牛でしたら、五頭にして返し、羊でしたら四頭にして返す。まだ手元にあったら、二倍にして償うのです。盗みは決して得になりません。盗みの代償は大きいのです。
 神様は、私たち一人一人に必要な恵みを与えて下さっています。そして、誰か他の人が持っているものは、神様がその人に与え、また託しておられるものです。私たちは自分に与えられているものを感謝し、それが多くても少なくても、心を込めて誠実にそれを用いるのです。もし、もっと多くが必要であったら、人をだまし、また人から奪うのではなく、すべてを与え、私たちを恵みで富ませてくださる神様に求めるべきです。神様はけちなお方ではありません。私たちが求める以上に豊かに与えてくださるお方なのです。

出エジプト記 22章7〜15節   2015年7月22日

どんな家畜でも、それを隣人に預けて、それが死ぬか、傷つくか、あるいは奪い去られても、それを見た者がなければ、双方の間に、隣人の持ち物に手をかけなかったという誓いが、主の前になされなければならない。(10〜11)

 隣人の金銭・物品・家畜などを隣人から託されていて、それが何らかの理由でなくなってしまった時の規定です。もちろん、託されているものを自分のものにしてしまうことは「盗み」にあたりますから、固く禁じられています。ですから、隣人のものに手をかけることはしていないということはまず主の前に正されなければなりませんでした。
 貸していたものをなくされたとか、家畜を貸していたら死んでしまったというようなトラブルはいつの時代でもよくあることです。ここで主は、人からいろいろなものを借りている人・託されている人に対しても誠実を求めると共に、物品や家畜などを託されている人が不当な要求に合わないようにも配慮してくださっています。そこでも覚えることは、借りた人も貸した人も共に主の御前にいるということです。私たちはその隣人に対して責任を負うと共に、主の御前に責任を負っているのです。

出エジプト記 22章16〜27節   2015年7月23日

あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。(21)

 ここには寄留の他国人・寡婦・孤児・貧しい者たちを保護すべき規定があります。彼らは後ろ盾がなく、社会の中でもとても厳しい状況に置かれることが多かったのです。しかし、主は、このような社会的に立場の弱い人々を苦しめたり、しえたげたり、悩ましたり、厳しく接したりしてはいけないと語られます。かえって私たちはあわれみ深く生きることが大切です。
 それは、神があわれみ深いお方だからです。彼らの叫びを主は聞いておられます。また、自分も将来そのような立場になるかもしれません。それに加えて、主はイスラエルがかつてエジプトで寄留者であったことを忘れないようにと語られます。そもそもイスラエルがエジプトに下ったのは、ききんを避けるためでした。エジプトに下ったおかげで、彼らは命を永らえることができたのです。また後の奴隷生活でも、寄留の他国人として生きることの難しさを彼らは知っていました。だからこそ寄留者たちに親切にすることが求められています。主が彼らの背後におられたからです。

出エジプト記 22章28〜31節   2015年7月24日

あなたの豊かな穀物と、あふれる酒とをささげるに、ためらってはならない。(29)

 神様は、モーセとイスラエルの民をエジプトで奴隷であったところから導き出し、豊かな祝福の地へと導こうとしておられました。主はこのところで、やがてイスラエルの民が豊かな穀物とあふれる酒を与えられるようになることを語っておられます。しかし、豊かになった時、私たちは与えられたものを豊かにささげることが大切です。案外、私たちは豊かになっても、なおも貪欲の心を起こし、神に喜んでささげるということをしないものです。私たちは惜しむことなく豊かに与えてくださる主に、喜んで献げる者たちでありたいと思います。主は私たちを愛して、まさに、そのひとり子さえも与えて下さったからです。
 ですからイスラエルの民も自分の大切なういごをささげるようにと言われています。もちろん、作物や自分のの子、自分の動物だけではありません。「聖なる民」として、私たちは自らをきよめ、喜んで主の御前に自分自身をささげるのです。



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