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新約聖書
出エジプト記 16章1〜12節   2015年6月26日

見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。(4)

 エジプトの地を出て二ヶ月目の十五日、というのは、出エジプトの出来事からちょうど一ヶ月ということでもあります。イスラエルの民はシナイ山に向かっていました。エリムとシナイの間の荒野で、ちょうどエジプトから持ち出した食糧も尽きてくる頃です。イスラエルの民が食糧がなくて苦しむのは分かります。しかし、彼らはまたもやつぶやき、エジプトでは飽きるほどパンを食べ、肉を食べていた、とエジプトを懐かしむような発言をするのです。
 しかし、主は、「わたしはあなたがたのために天からパンを降らせよう」と語られます。神は、朝にはパン、夕には肉に飽き足りるようになる、とおっしゃいます。この時、イスラエルの民は二百万人ほどいただろうと言われています。神は何をしようとされるのだろうか、民も、モーセでさえも想像できなかったこと、思いつきもしなかったようなことを神はしようとしておられました。彼らは恐れたり、つぶやいたりする必要は全くなかったのです。

出エジプト記 16章13〜18節   2015年6月27日

イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。(15)

 夕べになるとうずれの群れが飛んできて、イスラエルの民はそれを食べました。そして朝になると、宿営のまわりに露が降りて、それがかわくと、薄いうろこのようなものが敷き詰められていました。イスラエルの人々は「これは何?」と言いました。そしてその人々の言葉「マナ」がそのままその名前となりました。モーセは、「これは主があなたがたの食物として賜わるパン」と言います。彼らはそれを集めて、焼いたり、煮たりして食べました。一人1オメル(2・3リットル)で人数分、食べる量に従ってそれを集めました。多く集めた人も少なく集めた人もいましたが、不思議なことにはかってみると、余ることも不足することもありませんでした。
 イスラエルの民はこれから四十年間このマナによって養われていきます。このマナは彼らに必要な栄養と力を与え、荒野の中にあって彼らを支えたのでした。このマナは新約聖書においては「わたしは命のパン」と言われた主イエスを指し示しています。

出エジプト記 16章19〜30節   2015年6月28日

あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか。見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである。 (28〜29)

 このマナについてはいくつかのルールがありました。そのマナは毎朝与えられるけれども、取り置きはできないということ、そして安息日(土曜日)はマナは降らず、安息日の分は前日の金曜日の朝に集めておくべきことです。通常、マナは集めて翌朝までとっておくと、虫が付いて臭くなりました。しかし、金曜日には二日分が与えられ、それは翌朝になっても食べることができたのでした。
 イスラエルの民は毎朝、このマナを集めることによって、変わることなく、いつも真実な主を知ることになります。また安息日にはマナは降らない、ということから、安息日が特別な日であることを彼らは学んだのでした。そして、彼らを救い、養い、支えてくださる主の御前にどのように生きるかを教えられて、律法に従う歩みをとても具体的な日常生活の中で実践していくように促されていったのです。

出エジプト記 16章31〜36節   2015年6月29日

イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた。(35)

 一日二日の出来事でしたら、偶然、ということもあり得るでしょう。しかし、彼らは四十年間マナを与えられて、それを食べて生きていったのです。毎日毎日、安息日を除く週六日、神は朝ごとに新しくマナを与えてくださいました。そして、それは、神の約束された地に入るときまで続いたのでした。
 この朝ごとのマナは私たちの霊の糧である「御言」にも言えることです。私たちは朝ごとに御前に近づいて、聖書を読み、神の恵みをいただきます。私たちは昨日の恵みで今日を生きることはできません。主は、朝ごとに新しい恵みを与えようと待っておられるのです。そして、この主の恵みはやがて、私たちが主の御前に立ち、とこしえにその御国で主と共に住む、その時まで続きます。そして、この約束の地まで続く荒野での養いは、私たちが、やがて主の御前で主と共にあずかる天の饗宴を待ち望ませます。私たちはこのお方によってすべての必要を与えられ、霊の命を与えられて、御国を目指して進むのです。



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