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申命記 4章1〜6節     2016年1月13日

いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを聞いて、これを行いなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。(1)

 「定め」「おきて」とあるのは、神がイスラエルの民に与えられた律法のことであり、聖書の言葉のことです。大事なことはまず神の言葉をきちんと聞くことです。モーセの時代にはまだ印刷技術もありませんでしたし、本を読むという習慣もありません。もちろん、神が語られた言葉を書き留めたのですが、普通の人々は書き留められた紙の言葉を誰かが読んでくれるのを聞くしかなかったのです。現代の私たちはモーセの時代よりもずっと聞くことが苦手になっているように思います。誰かが読み、語ってくれる神の言葉を耳で聞き、心で聞いて受けとめることです。耳を使うという意味では、聖書を自分で音読するのもある面でとても大切なことだと思います。
 けれども、聞くだけで終わってしまってはいけません。聞いたらその通りに行うこと、従うことです。神は、私たちに無理難題をふっかけ、また縛るために、律法を与えられたのではありません。私たちが生きるための道を示してくださったのです。

申命記 4章7〜14節     2016年1月14日

われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。(7)

 モーセはイスラエルの民がどんなに大きな恵みの中に置かれているかを語ります。それはイスラエルの民が主を呼び求める時、いつも主はそばにいてくださるということです。イスラエルの民にとって、主が共にいてくださるということ自身が、まさに救いを意味していました。私たちには、私たちが求めることを許されている主なる神がいてくださる、逃げ込む場所、祈りを聞いて、救ってくださるお方がいてくださるのです。確かに大きな軍隊を持ち、堅固な町々をもった国・民族もあるでしょう。けれども、何を持つにまさって、主が近くいてくださるということにまさる宝はありません。
 イスラエルの民に与えられているもう一つの大きな特権は、神から律法を与えられているということでした。主はホレブにおいて山の上に下り、新しい地に生きるための指針として十誡を与えられたのでした。神に御言を与えられているということは、何よりも大きな特権だったのです。

申命記 4章15〜24節     2016年1月15日

あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。(24)

 モーセはどれだけ主が約束された祝福の地に自分も入りたいと願っていたことでしょうか。しかし、主はモーセがヨルダン川を渡っていくのを許されませんでした。それだけに、モーセは、荒野でも神に度々背き、不信仰を起こしたイスラエルの民のことを思い、どんなに心配していたことだろうかと思います。
 モーセが今日の箇所で警告しているのは、主を人間や動物の像に代えてはならないということです。私たちは、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出してくださった主なるお方を捨てて、男や女の像、獣や鳥、地に這うものの像、また太陽や月や星などを拝むなど想像もつかないと思います。しかし、エジプトで奴隷として過ごした時の習慣やカナンの地の先住民の習慣はすぐにイスラエルの民の中に入り込んできました。私たちはどこまでも目に見えるものにすがりたいものなのです。
 モーセは主は、「焼きつくす火、ねたむ神」と言います。それは神が私たちを本気で愛し、熱心に、徹底して関わってくださるお方であることを示しています。

申命記 4章25〜31節     2016年1月16日

しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。(29)

 イスラエルの民が偶像礼拝に陥るなら、イスラエルはその地からたちまち全滅する、とモーセは警告します。そして、民は約束の地から国々に散らされてしまうのです。けれども同時に、主の限りないあわれみが語られます。もし、散らされて行った地にあって人々が心をつくして主を求めるなら、人々は主に会う、というのです。
 私たちが罪を犯し、神の御心に従うことを拒んでしまっても、後に、そのことに気づいて主を求めるなら、主は私たちに会ってくださいます。
 そして私たちがその罪を悔い改め、主に立ち帰って、その御声に従うなら、主はそのいつくしみによって、私たちをもう一度、生かしてくださるでしょう。
 私たちが罪を犯すとき、サタンは私たちに、もう悔い改める道など残されていない、と信じ込ませようとします。しかし、サタンのささやきを信じてはいけません。主は今も、私たちが砕かれた心で主に近づくことを待っておられるからです。

申命記 4章32〜49節     2016年1月17日

それゆえ、あなたは、きょう知って、心にとめなければならない。上は天、下は地において、主こそ神にいまし、ほかに神のないことを。(39)

 「主こそ神にいまし、ほかに神のないことを」心にしっかりととめるようにとモーセは言います。天においても地においてもこのお方だけが神であり、他には神はありません。聖書の語る神は、私たちを愛し、救い出してくださるお方です。イスラエルの民がエジプトで奴隷であったところから救い出してくださったということは、まさに罪の奴隷であった私たちが主イエスの十字架のあがないで救われることを指し示す予型的な出来事でした。
 また、モーセはこのところで、主は語られる神だと言います。人間が造った神は自らの意志で語り出すことはありません。しかし、この主なるお方はあのシナイ山で火の中から語られたのでした。本来でしたら、聖なる神が語られる声を聞いた者は生きておれないのでしょう。しかし、私たちは聞いてなお生きている。まさに神の言葉は私たちを生かし、さいわいを与えるのです。



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