「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである。」
(エペソ 4:24)
2024年の「新年聖会」は、対面形式で行います。勿論、まだまだと感じておられる方々身心に不具合があられる方々の事にも配慮して、通信形式でも同時に行います。
さて、聖会とは、以前は「聖別会」とも言われました。私的には、この言い方の方がしっくりします。この聖別会を私的に解説すると「罪・汚れから別たれ、聖なる存在になる事をススメる会」となります。としますと、それは常住坐臥行われている公私の礼拝とどう違うのかとの疑問を持たれる方がおられるかと思いますが、本質的に罪・汚れを扱い、聖なる存在になるようにとススメる事に於いて何ら変わりはありません。
大きく違うのは、教会・教団を越えての集会であると言う事です。さらに、この集会のために特別に講師が立てられる事です。さらに、特別に公に「決断を求めて恵みの座」が設けられる事です。
私は、長い間、教団主催の聖会を担当しましたが、年々、この「恵みの座」に出て、神と人の前に、意志表示をする方々が少なくなって来ていることに、淋しさと言うより、出席者の方々の決断力の弱体化を感じています。それは、神からの特別な恵みを受けそこなっている事を意味します。また、ある人が「かよい慣れたる恵みの御座」と揶揄するのを聞いて憤慨した事があります。そのような捉え方に成り下がって行きますと、教会の強勢も、個人の霊性も、生活も押して知るべしになる事は、明らかです。
さらに、そのように捉えるのは、聖書的人間観を理解しているとは言えません。あの偉大な伝道者パウロは、最後の最後まで、自分の罪深さ、弱さに泣き、悔改めに生きたのではないでしょうか。新年早々、悔改め、泣きの涙でもないでしょう!「あけましておめでとう」と晴れやかな気持ちで新年は迎えるべきでしょうというのは、はなはだ、日本的人間観に基づいていると言わざるを得ません。
お互いに、新年は悔改めて、赦され、新しい存在にされたとの感激の涙と、罪に変えて聖霊の力を注がれて、一年を全うし、暮れには、神のお力添えに感涙し、感謝して終わるようにしましょう。 あなたにも、このような人生を歩んでほしいと神は願っています。
どうか、勇んで、お誘い合って「2024年新年聖会(東西教区主催)」においで下さい。
心からおススメと、ご案内を申し上げます。
東西教区新年聖会委員長 水間 照弥 (新井キリスト教会)
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