前にある喜びのゆえに(木下昌彦師)
   
(ヘブル121-3)

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前に置かれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。(2)

 今日の箇所(ヘブル12:1-3)は、信仰生活をゴールに向かって走る競技、マラソンのように例えています。信仰生活にもスタートがあり、ゴールがあります。イエスを自分の主と信じスタートし、地上で命ある限り走り続けるのです。そして、ゴールは神の国です。時に苦しみがあり、試練があり、目標を失い、元気を失い、疲れ果ててしまうときがあるかもしれません。そのような時は、周りの人々から慰められ、励まされ、元気をもらう。共に走る仲間によって強め合いレースを続ける。そして、苦しい所を乗り越え、ゴールが近づくとまた喜びが満ちあふれてくるのです。

イエスは走り続けました。走り抜かれました。信仰を最後まで全うされ、完成されたのです。そのレースは決して楽なものだったわけではありません。私たちが想像もできないほど苦しいものでした。彼は、はずかしめをものともせず十字架を忍び、罪人たちの反抗を忍ばれたのです。聖書は「前に置かれている喜びのゆえに」と語ります。イエスご自身が父なる神のもとに引き上げられ、自分だけが御座の右に着座される喜びというのではありません。それは、私たちが救われ、捕われているものから自由にされるという喜びです。主イエスに続いて信仰のレースをスタートする者たちの救いの喜びであり、それらの人々がその信仰生活を全うして、神の国に引き上げられるということの喜びなのです。私たちの救いの喜びのゆえに、主イエスは辱めや反抗をものともせず、その信仰の歩みを全うされました。あなたが今ここで主を礼拝することを先に見て喜ばれ、あなたのことを思う溢れる喜びがイエスを前に押し出し続けたのです。

 主イエスが今も生きておられるという事実は、彼の受けた苦しみが無駄ではなかったということを示し、また、私たちの信仰のレースは決して空しいものではないということを示しています。主は生きておられまる。主は私たちの信仰の歩みを完成に導いてくださいます。この事実が確かなゆえに、世界中の人々は主を信じ目標を目指して主と共に走り続けているのです。主イエスは私たちの救いという喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍ばれました。私たちも、そのような主から目を離さないで走り続けましょう。 

(2008.3/30)