誰のための信仰か 
  
      (ルカ20章41 〜 47節)

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。(エペソ5章1〜2節

 

イエス様は十字架を前にしておられ、弟子たちを教える時間はもうあまり多くはありません。けれども、そのイエス様がどうしても弟子たちに伝えたいことがあります。その一つが、信仰のあり方と言うことでした。ある意味、弟子たちの信仰の土台の部分には昔から植え付けられた、パリサイ的な、律法学者的なものがあるのではないか・・・イエス様が、「律法学者に気をつけなさい」と言われたときに、一つ間違えると容易に律法学者的なものが入り込んでしまうという危惧がおありになったのでしょう。それは私たちの場合にも同じだろうと思うのです。

それでは律法学者たちの信仰のあり方とはどのようなものだったのでしょうか。彼らは確かに、その当時の宗教界を引っ張って行っていた指導者たち、リーダーたちでした。けれども彼らの信仰の中心はいつでも自分のことでした。自分が得をし、自分がほめられ、自分が評判になり、自分の人気が出て、自分が有名になる・・・だから、彼らの信仰の歩みはいつでも、神の前に、というよりも人の前にどのように見えるかと言うことでした。長い祈りも、神に対してというよりも、人に聞かせて、いかに自分がすぐれた宗教家かということを知らしめるためだったと言えます。

 皆さん、私たちの信仰は誰のためなのでしょうか。それはイエス様のためです。このイエスこそが救い主キリストです。そしてイエス・キリストはダビデが主と呼んだお方、単なる神の使いではなく、主の主、神の子なるお方なのです。そして、私たちが主のために生きるときに、主は、私はあなたのために何でもするよ・・・と呼びかけてくださる。自分のために生きるのはやめましょう。私たちを愛してくださったお方のために生きる。生きるのも主のため、死ぬのも主のため・・・・。主が私のためにしてくださったから、私たちは安心して、主につかえることができるのです。聖書の信仰とは、イエス様のためです。でも、イエス様のために自分はこんなにがんばっているんだと、自慢することも、誇ることもできません。実に、まず主なるキリストが、このことをしてくださったからなのです。     

(2008.2/17)