クリスチャンと呼ばれていますか 
  
      (使徒行伝11章19〜26節)

このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。 (26節

  在米中のある日、私たちの家に集まってきた学生たちと話をしていた時、一人の学生が「僕はクリスチャンです。」と言った。しかし、その学生は教会に行っていないという。それじゃなぜ?と思ったので、聞いてみると、日本の親が教会に行っていて、その彼自身も小さい頃教会に行ったことがあるということだった。

 聖書には「クリスチャン」という言葉が3回出てくる。最初に使われたのはアンテオケ教会だった。その当時には他にヘロデ等など様々な呼ばれ方があって、「クリスチャン」も同様にイエス・キリストの追従者”Followers of Christ”と言う意味で呼ばれていた。つまり彼ら自身が自分たちのことを「クリスチャン」と呼んでいたのでなく、キリストの群れのことを知らない人々からそう呼ばれていた。彼らは自称クリスチャンではなく他称であって、教会に来ていない人々からそう呼ばれていた。

 なぜ、アンテオケ(教会)からだったのか?残虐な迫害のためにユダヤ教とは無縁の異教の地に散らされて行った彼らの思いは自分たちの群れにだけというのではなく、いつも外に向けられていた。彼らはエルサレムではやっていなかった新しいミニストリーを外に向けてやっていた。だからこそ、その町の人々から彼らの存在をよく知られていて「クリスチャン」と呼ばれるようになった。

 その集いが、主の手によって人数的にもさらに祝福されてきたので、エルサレムの教会の信者たちは、バルナバを派遣した。バルナバは、そこに「神の恵み」を見て喜んだ。それまでは、キリストの群れとは全く関係のない人々が回心しているのを見たからであった。彼らが伝統をしっかりと守っていたからではなく、集会に休まず来ていたからでなく、忠実に奉仕をしている姿を見たからでもなかった。もちろんそれらも大切なことかもしれないが、それよりもバルナバが見た神の恵みというのは異教徒の回心であった。神の恵みが見えるのは日曜日だけではなく、日常生活の中においてだった。

 私たちの目はいつもどこに向けられているでしょうか?どんな小さなミニストリーであろうとも、主にとどまりつつ、皆が常に教会の外のことに目を向けて与えられた使命を生きていくなら、主はその御手をおいてくださり、それらの働きを祝福してくださる。私たちは、神の宣教のために選ばれ、この時代のこの地域に遣わされているのです。

(2008.1/20)木下 昌彦師