悲しむ者の幸い
(マタイ5章 4節)
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 (マタイ5章 4節)
「悲しんでいるひとは幸いだ」とイエスさまはおっしゃいました。悲しい時は神さまからも見捨てられているように思えます。悲しんでいる時の私は憐れむべき、不幸でかわいそうな存在なのです。
幸いだと言ってくださる主
けれどもイエスは私たちの悲しみの多い現実のただ中に立ちふさがるようにして、「幸いだ」と言ってくださいます。私たちの身に不幸が雨あられのように降り注いで、世界中の人々が「お前は不幸だ、神からも見捨てられているのだ」とあなたの耳元で叫ぶようなことがあっても、イエスは語ってくださるのです。「あなたは不幸ではない」「あなたは見捨てられているのではない」「あなたは祝福されているのだ」。
悲しむ人が得ることができる慰め
イエスはおっしゃいました。彼らは慰められる。神が慰めを与えてくださる。悲しみの中にある人だけが経験することのできる、神のご配慮がある。悲しむ人だけが、神さまの深いご愛を知ることができる。叫ぶあなたのかたわらに神が立ってくださって、あなたの顔をもたげてくださる。もちろん、悲しみをもたらす現実のすべてを理解することはできないかもしれないけれど、すべてをご存じの神さまの手にゆだねることはできる。悲しみが深ければ深いほど、それが大きければ大きいほど、神の与えてくださる慰めも大きい。そして、今度は私たちを慰めの器として用いてくださるのです。
悲しみをになうイエス
聖書はイエスのことを「悲しみの人で病を知っていた」と言います。イエスは深いところに悲しみを負っておられました。同時に聖書は言います。イエスは、「われわれの病を負い、われわれの悲しみを担った」。イエスさまは決して高いところから見守り応援しているというようなお方ではなく、私たちのところまで降りてきて、私たちの苦しみ・病・悲しみを担ってくださったのだ。それが十字架だったのです。イエスさまは私たちの悲しみを分かってくださいます。そして、それだけではない、それを担い、私たちに悲しみを与える最後の敵である死をも、ご自身の十字架の死と復活によって滅ぼしてくださった。その上で、「悲しんでいる人は幸いだ、主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終る」(イザヤ六十20)と呼びかけてくださるのです。
(2007.10/21)