善意に満ちた人に
  
      (ローマ12章1〜21節)

愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。    (ローマ12章9〜10節)

 善意とは何でしょうか。善意の逆は悪意ということになるわけですが、要するに、私たちの外側に出てくる行為の動機が問われているのです。

1 神のご性質としての善

 詩篇の119篇68節に「あなたは善にして善を行われます」とあります。神は善なるお方です。私たちは神が善であられたら、どうしてこんなことが・・・と神様の善意を疑いたくなることがあるかもしれません。けれども、神様は善なるお方です。神はいつも善を行われるのです。私たちは人の善意を疑うことがあります。信じられないことがあります。でもあとで振り返って見るときに、ああ、あの時は意地悪だと思っていたけれど、善意で言ってくれていたんだなあと思い返すのです。神もそうです。神は善なのです。

2 私たちが見分けるべき善

 ですから、神の御旨、神の喜ばれることは何だろうかと考えることはとても大切なことです。それはこの世の基準、この世の楽しみとは違うかもしれません。この世では善か悪かと言うことではなく、苦しいか楽かということが第一の判断材料になります。けれども善を選び取る道こそが一番楽しい良い道なのだと言うことを知ってください。

3 人間関係の規範としての善

 この善意は、私たちお互いの交わりの中にあって表されていきます。お互いのことを思いやり、自分の与えられた責任を果たしていく。互いにいつくしみ合い、尊敬し合う。嘘・偽りのない愛の関係が善です。私たちはそのような善意に生きる者にされるのです。

4 悪を飲み込む善

 ここでもう一つのことがあります。実際には私たちに対して悪意をもって近づいてくる人もいるでしょう。けれどもパウロは、悪意をもって近づく人にも善意をもって答えよ、というのです。復讐するのではなく、善をもって人に接していく。復讐は神様にゆだね、自分自身はどこまでも善意に生きていく。私たちが求められているのはまさにそのような善意に満ちた人となることなのです。

けれども私たちのうちにはそのような善がないと聖書は言います。まさに、そんな私たちが善に生きるために主はこの地上にきてくださったのです。そしてこの主イエスの恵みによってのみ、私たちは善意に生きる者とされるのです。

(2007.8/26)